別院の岐阜県特別天然記念物「藤」の花
と宝暦治水 幕府方義歿者・竹中伝六の墓
藤の花は見頃、7分〜8分咲きになりました・・・平成26年4月23日Pm3:15
(4/22-NHKで紹介され、花見客が一杯になりました)
竹中伝六の墓
宝暦5乙亥歳正月13日没
真宗大谷派竹鼻別院(羽島市竹鼻町)境内に 「春光院釈法善 宝暦5乙亥歳正月13日」 「武州江戸本郷元町住竹中伝六喜伯墓 行年29歳」。
幕命により幕府方役人・御小人目付けとして、江戸より赴任し一の手工区に配属、庄屋太田八右衛門方に止宿して、工事に精励した。第一期工事は無事完了し、第二期の逆川の木曽川口の締切工事に着手したが、締切や石田の猿尾等の難工事が相次ぎ、工事は天候や人為的な妨害によって遅々として進まなかった。
第二期工事がほぼ終わった正月に、突然、旅館藤丸屋にて腹を賭して短い生涯を終わった。死因は全く不明である。 治水工事を指令されて実施した薩摩側だけでなく、監督側の幕府役人においてもこのほかに自刃者が出ていることは、幕府側からいかに理不尽な扱い(いじめ)が行われたか、想像を絶するものであった。これを耐えて、お家のため主君のためにと、歯を食いしばって耐えていたが、屈辱・忍に絶えられず再び「あの噴煙たなびく桜島を眺める」こともなく自害する者、家族・家庭・子を思いながら、必要以上の手当もしてもらえぬまま病死する者。風土・言葉・徒労感や責任感・失望感も想像に絶するものがあったことであろう。今は墓前の大藤が往時を偲ばせている。
伝六墓・藤の花・藤丸屋-----藤つながり。
これは藤にまつわる話ですが、古老から聞いた話を思い出しました。伝六切腹の数年後、止宿先の「藤丸屋」に妙齢のご婦人がお忍びで訪れ、金2両の包みを差出し『竹中伝六の身内のものです。これにて墓を建てて葬ってください』と言って立ち去ったそうです。藤丸屋主人平右衛門は、幕府よりきつく、薩摩の者を弔う事や墓などをつくることを止められていたので、こっそり伝六の妻が身分を隠して来られたことを察して、墓を建立したとの言い伝えがあります。
墓碑の表面には「春光院釈法善 宝暦五乙亥歳正月十三日」と刻まれており、左側に「武州江戸本郷元町住竹中伝六喜伯墓行年二十九歳」、右側に「詞堂金二両施入竹中茂八」と記してある。竹中茂八は伝六妻の子の名前かと思われます。
別院の岐阜県特別天然記念物「藤」の花
と宝暦治水 幕府方義歿者・竹中伝六の墓
藤の花は見頃、7分〜8分咲きになりました・・・平成26年4月23日Pm3:15
(4/22-NHKで紹介され、花見客が一杯になりました)