不破為信杏斎の「皇女和宮下行記  中仙道 随伴医師記録」文久元年辛酉十月(1861)

(本書手控え帳は 和綴、半切10枚 表紙共 本文16頁 
 縦・20.2cm×横幅・14.0cmの小冊子)
                          2002.5.10掲載
表紙・
 文久元年辛酉十月 
和宮様 御下向ニ付
      河渡宿出役中
      御用留 
             不破為信 扣
表紙裏
和宮様は略語也。
和子内親王也。
覚え
以手紙啓上仕候。寒冷の節益々御清克被為渡、奉南山候。然者急に御相談申上度儀有之候間、明日中に小生宅迄御入来可被下侯様奉待上候。誠に常には大御無沙汰御許容可被成下候。 尚書外得御貴顔萬々可申上侯。                      早々頓首

  初冬 十九日  伊藤一元拝

不破為信様玉机下
前書の通り書状到来仕り候に付廿五日早速伊藤一元方え出張致す可くと存じ笠松柳原にて村役喜三郎に出逢い候処、貴君様今日御役所へ御出張の思召にて御出なされ侯やと相尋ね侯に付、いやいや御役所よりは何の御沙汰もこれ無く侯へ共、医師伊藤一元と申す人より咋十九日、何卒相談いたし度き儀これ有る間、小生に出張いたし呉侯との書状参り侯に付右之宅迄参る心組に侯と相答侯処、則喜三郎申侯には今日私、領平両人御役所より御用の儀これ有る間、早々出張致す可旨郷宿松屋より書状参り侯に付直様罷出侯処如何なる儀にか両人へは何の御用もこれ無く、貴君に出張致す可き旨申し渡せ
との御事に侯間、一先御役所へも御出張然る可しと申され侯。それより相別れ伊藤氏へ参り時侯の挨拶をのべ終り、時に昨日御書面の趣き如何なる御儀に侯と相尋ね侯処、左侯、別儀にあらず、今般和宮様都下向に付、河渡宿御昼と相成り到って多人数混雑の事故急病手当の為其方共に不破為信両人の者河渡宿え出張致す右き旨、御内意もこれ有る間、何れ近日御役所より仰せ渡しも是ある可くと存じ侯間、一先づ御招き申しあげ、萬事御相談申し上げ度くと存じ侯。未だ貴君へは御役所より何の御沙汰もこれ無きやと申され侯に付、左様侯。今日迄は何の御沙汰もこれ無く侯へ共、只今当所柳原にて拙村庄屋喜三郎と申す者に出逢い侯処、貴君今日御役所え御出張の思召しにて御出でなされ侯やと相尋ね侯に付、いやいや
左様の儀にては是なく、当所医師伊藤一元と申す人より昨十九日何角相談いたし度き儀これ有る間早々出張いたし呉候様書状を以て呼びに参り侯間、夫故出かけ候と相答え候えば先方申すには、私共相役両平(領平か)弐人御役所より御用品之ある趣にて松屋より申し越し候に付早速まかり出で侯処、御役所に於て不破為信儀御用向これ有る間其方共早速引取り早々まかり出ず可き旨申し渡せとの御事故一先づ御役所へも御出なさる可きと申し侯間、左様候へば今日御役所に於て御内意の趣仰せ渡しこれ有る可しと存ぜられ侯間一先づ御役所へまかり出で御用の趣き承はり、夫より萬事御相談仕る可きと申し、直様郷宿松屋同道にて御役所へまかり出で御届け申し上げ侯へば暫く腰掛に扣えよと
の御事故待合せ侯処、そのうち伊藤一元も御呼出しに相成り三人待合せ、
暫くして御役所へまかり出で侯処御郡代岩田鍬三郎様御元メ加判松本次三郎殿御列座にて仰せ渡され侯趣き左の通り、但し御郡代様御直命にて「今般和宮様御下向に付当月廿六日河渡宿御昼と相成り格別厳重にて、殊に御当日は勿論、前後の処多人数にて混雑の事故急病手当の為其方共両人廿三日より出張致す可し」との御事畏れ奉侯。 夫より松本様仰せには膏薬、薬品などは申すに及ばず混雑の事故薬かんなども持参致す可様承知いたせとの御事にて、畏れ侯て退朝す。 夫より伊藤氏まかり越し、首尾滞りなく相談いたし衣類など如何なる風体にて宜しきや相分り申さず侯間、裃、袴、羽織、野袴、黒紋付、白ムク、破り羽織、股引、脚半、其外雨具なども用意いたし、食事なども如如なる儀やら相分り申さず侯間、餅など少々
用意の積りにて相談いたし、 夫より句々 家に帰り、夫々心組いたす。其夜伊藤氏より松本様え窺いくれ、出役の節薬籠持奴僕壱人は勿論門人壱人ヅツ召しつれいでは急病の節不都合も是ある可く間右の趣も申立、且つ又御用灯燈、御衛府なども頂載いたし度儀申上侯処、早速御承知ありて、相遣す間御用済の節早早返納致す可しとの御事也。但し右之受取書御役所え差出す可しとの御事にて候。御受取書のお覚え左の通り。
    覚

一  御用挑燈 弐張

   御衛府  四枚
右の通り慥かに受取り奉侯       以上

酉ノ十月

不 破 為 信印

伊 藤 一 元 印

 笠 松                 

 御 役 所                              右の通りにて上包紙には上とばかり認め御湯呑所へまかり出で小使へ渡し侯処小使より御役所へ上納いたし候へば慥に受取との御事也。御衛府寸方長さ八寸四分、巾弐寸 旦し鯨尺にて。

 岩 田 鍬 三 郎 内

     不 破 為 信

 右之通りにて松本様直筆にて御認頂戴、右受取書上納は廿二日の事也  右の御衛府は両掛ばかりにて薬籠にはこれ無く侯。
さて廿日伊藤氏にて萬事相談いたし家に帰り、夫々心組いたし、廿二日昼後又候伊藤氏にまかり出る.但シ薬籠、両掛など相持也。又々伊藤氏にて滞なき様相調へる。其夜小生ばかり伊藤氏に泊り、奴僕両人は内へ相もどし、明廿三日両人の内誰なり共壱人未明に伊藤氏迄来る様申付侯処、松二郎参り候。 さて廿三日河渡宿へ弥々出役いたし侯。召連れ侯門人の姓名、小生の門人馬淵誠次、伊藤氏の門人は久納娟造(けんぞう)と申者也。小生の薬籠持手人松二郎、伊藤氏の薬籠持手人和平二と申す者なり。両掛持は御用会所の人足にて侯。さて廿三日笠松発足の節は小生、伊藤氏の両人者黒羽織、野袴、大刀、門人両人の者共は破羽織、大刀付(タツッケ)にて侯。さて又出立の節は御郡代様始め御元メ福田清作様、同加判松本次三郎様(辰蔵様事) へ相届け、それよりソロソロ出役いたす.当日加納宿にて小休いたし又鏡嶋村梅之寺(弘法)にて休み、
此日酒井隠岐守様御通行赤坂泊り、河渡宿御昼、加納宿御宿りと相成り、道にて行違に相成り途中の民宿へ差扣、箱持両人の者は扣拝見いたし侯。 同廿三日御郡代様も河渡宿へ御発駕に相成、御手附松本次三郎殿附添小生共河渡宿へ着の節己に御郡代様は御着に相成侯間早速松本次三郎殿江向け着届いたし侯処直様医師両人の者、旅宿案内致す可き旨宿役人江向け仰せ渡され侯へば早速宿役人より上河渡白木善儀三郎方へ案内いたし侯。然る処儀三郎方未だ掃除前にて亭主忙鋪(いそがしく)掃除いたし侯間奴僕共へ申付手伝いたす。其間小生共両掛に腰掛居侯。其後坐鋪(ざしき)へ入侯処、坐蒲団弐枚差出す。火鉢も弐ツ差出す。夜分蒲団杯沢山。此日各々草臥空腹に相成
侯間、兼而持参いたす餅を炙り食す。夜分五ツ半時夕飯を出す。膳部左の通り。
 焼物 平 汁 飯 余は之に準ず。
飯後早々眠に付く、但し旅宿門前には「御用」と申す高張を出し候。同廿三日御郡代様は御帰陣に相成侯.翌廿四日何の御用もなく到って閑暇に侯。廿五日又侯 御郡代様御出張に相成り小生共の旅宿の隣家領助と申者の処御本陣に相成侯間、直様御機嫌窺いに罷出侯処御目通り仰付けられ至って御丁寧の御挨拶にて「此度は大いに御苦労に侯、定めて迷惑であろうが致し方も無く侯。サアサア勝手に旅宿へ引取り休息致す可し」との御事故儀三郎方に差扣へ居り侯間御用品仰せ付けらる可き様申し上げ退参いたす。但シ小生共外へ出る時は旅宿の亭主一一羽織袴にて案内いたす。此夜御郡代様は御泊りに成り相至って御用繋の御事に侯。小生共は

(注-1)酒井隠岐守忠儀 文化(一八一三)生れ、明治六年(一八七三)歿、若
  挟(福井県)小浜の藩主、京都所司代となり、和宮降嫁に力を尽くす。
到って閑暇の事にて侯。廿六日河渡泊。和宮様御昼到って厳重、殊に混雑いたし侯。勿論小生共は御用前故拝見には罷出でず侯。和宮様滞り無く河渡宿御発與に候間御郡代も御通行筋御支配も多分これ有る間其方へ向け御出て遊ばされ侯間廿九日ならでは御帰陣にも相成り申さず侯趣にて同夜御出役松本治三郎殿旅宿へ小生共相窺い、さて今日は宮様滞り無く御発輿相成り恐悦の趣申し上げ、明廿七日は小生共帰宅仕り侯てよろしき侯や相窺い侯処、明廿七日は公家様方当宿御昼にて多分御通行もこれ有る間其方共は御昼過に引取侯にても然る可き趣仰せ付けられ侯間、廿七夫々帰宅の用意いたし昼後早々松本氏へ帰宅の届をいたし引取侯。此時亭主渡船場迄袴、
羽織にて見送り侯。但シ当日右の公家様方加納宿御泊り故往来筋は混雑いたし侯間夫故小生共次木(なめき)村水門の方へ相掛り在道ばかり笠松迄引取り侯。両掛人足はこれ又河渡宿間屋人足に侯。さて笠松表へ引取り直様装束のまま御元メ福田氏、同加判松本氏共に御郡代様御台所えも罷出、御用人佐籐氏へ滞り無く御用済に相成り侯趣相届侯。其夜小生は色々雑費の割合なども有之間郷宿松屋に泊り奴僕ばかり内へ戻し侯。廿八朝御用挑燈、御衛府伊藤氏同道にて御湯呑所へ罷出、小使へ向け返納いたし侯処、御役所より慥に受取るとの御事也。さて松本氏へは御掛故
小生共出役の節色々手数も相掛り侯間「菊の露」と申す味淋酒一升壺壱ツづつ呈上致す。さて小生は伊籐氏に色々世話掛け侯間「勝山」と云上酒二升の切手一枚進上いたす。但し代三匁がへ。角田先生へ土産として同菊の露五合入壱壺呈す。但し是は壱升代六匁斗り。さて松本氏へ呈上いたす酒代は伊藤氏に向け払い置侯。さて小生伊藤氏と諸勘定残らず相済まし、同廿八日七つ時(午後4時)目出度帰宅致し侯。さて小生出役中室原村門人鈴木本平と申す者当時開業いたし侯へ共頼みに遣わし、病用托し置侯。さて出役の節召し連れ候門人は俗人にて門人と申す名目ばかりに侯。
さて笠松にて伊藤氏との割合外に小生ばかりの雑川〆金弐朱ばかりに侯。さて室原村門人には帰宅の上別段代金弐拾目ばかりの礼をいたす。 さて此度は御通行到って厳重にて前代未聞の御事にて、当村などの在にまで御通行前後の処は焚火などは難く御禁制。さて此文は到って愚文にて侯へ共後の為アリまま是を記す。
裏表紙

  (注-2)上の留書を日次順に示すと次のようになる。

十月十九日 伊藤一元よりの手紙に接す。
廿日  一元宅訪問、次いで笠松役所において郡代より河渡宿出張の命を受ける 。
廿二日 役所より挑燈、衛府受領。
廿三日 笠松発足、加納宿を経て、鏡島弘法にて小休の後、河渡宿え、上河渡  白木儀三郎方に泊。

廿四日 宿舎にて待機。
廿五日 宿舎にて待機。
廿六日 宿舎にて待機、和宮昼頃河渡宿御発輿。
廿七日 公家方通過後両人河渡発笠松に向う。同夜は為信は笠松の郷宿松屋泊。
廿八日 午後四時帰宅




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(お詫び・・・漢字変換時、誤字多数あり、ご迷惑をお掛けしました。                  2002.5.16 修正完了しました)
尚、上の文書解説は昭和54年11月23日に、叔父・不破義信がまとめたものを参考としました。