羽島歴史散歩

羽 島 歴 史 散 歩
1 木曽川今昔物語 2007.06.15
2 竹ケ鼻城の歴史資料(竹ケ鼻城主・不破源六廣綱)
1.竹鼻城-五輪塔写真-大正10年頃
2.五輪塔写真-拡大
2006.02.08
3 羽島の歴史・八神城祉 
  三七松の遺跡・・・八神城主・毛利掃部介の娘(竹鼻城主・不破源六正室)自害の地
2006.02.08
4 美濃路街道散歩 2005.09.07
5 不破家の歴史 2006.01.31
6 薩摩義士 宝暦治水の偉業を偲ぶ 2005.09.07
7 宝暦治水工事に関する年表
2005.09.07
8
羽島・中区沖の経塚 2006.02.08
9 羽島市 南東部の史跡散歩(駒塚-石田-八神-大須) 2006.02.23
10 羽島市 西部の史跡散歩(三ツ柳-間島-本郷-平方-小熊) 2006.02.24
11 羽島市 北部 の史跡散歩
(正木町・新井-下大浦-不破一色 /足近町・北宿-直道/小熊町-西小熊 探訪) 
2006.03.31
12 羽島市 中部 竹鼻の史跡散歩
(川口-島-八劒神社-竹鼻別院-専福寺-西岸寺-佐吉大仏-聞得寺-浄栄寺-下町稲荷神社-正法寺-川町燈台−昭和橋-円覚寺-逆川橋-本覚寺--光照寺-亀屋・竹鼻の町屋-大西-江吉良 探訪) 
2006.03.30
13 薩摩義士 宝暦治水の儀没者の慰霊寺
薩摩義士菩提寺(別院・江吉良 清江寺・狐穴 少林寺)ご紹介
 
2006.03.26
14 正木・大浦 「大浦の蛇、火噴く蛇」写真提供・岩田光弘氏 2006.04.06
15 平成18年・竹鼻別院・本殿大屋根葺き替え工事後の姿 2006.08.29
 

 


(1)木曽川今昔物語    2002.4.28--2006.02.08更新

信長の天下統一を支えた川並衆

木曽川は戦国時代の高速道路

戦川岬代、木曽川を郷台に活躍した武装集団がいました。その名は「川並衆」。長らく歴史の陰に埋もれていた披らの存在が、江南市の吉田家の土蔵から見つかった大量の古文書と、各務原市、犬山市、江南市、岐南町、川島町の市長、町長や川並衆の子孫の寄り合いによって、現在、少しずつ明らかにされてきています。彼らこそ信長を、そして秀吉を歴史の最前線に送り出した、知られざる立役者だったのです。

 信長が生まれたころ、木曽川本流は革手、三宅(現岐南町)あたりを流れていました。しかし何百年の間に玉石や土砂がたまり、洪水のたぴに流れきれない水が上流の犬山付近までさかのぼり、その濁流は尾張国に垂れ流れるように入って、一の枝、ニの枝、三の枝と、いく紡もの文流を作りました。 洪水の被害という面では非常にやっかいな支流も、当時のこの地域の物流には大きな役割を果たしました。大きな川に橋を架ける技術がなかつた時代、陸路を使うよりも無理なく圧倒的に早く運べる川の航路は、まさに現在でいう後索道路。いかだや帆掛舟を縦横無尽にあやつり木曽川の航賂を統治していたのが、船頭の頭である蜂須賀小六、前野将右衛門、坪内宗兵衛、松原内匠ら「川並衆」だったのです。 その大河の流れと川並衆を活用して財をなした人物が、尾張の郡村(現江南市)の油商人、生駒八衛門です。生駒は、主に夏に起こる洪水によって運ばれてきた肥えた土に、9月ごろ菜種をまき、菜の花からしぼった油で行商しました。油に火をともして明かりをとっていた当時、川運で運ばれた生駒屋の油は各地で大当たりします。その生駒の川心棒だったのが川並衆を取り仕切っていた蜂須賀小六.。そして生駒の富を頼り、日々生駒屋敷に出入りしていたのが信長で、信長の政商としての役割を担っようになった八衛門は、川並衆に信長への協力を要請します。


木曽・長良・揖斐川三川流域絵地図(宝暦治水以前の川絵図)

川を制する川並衆を見方に

天下統一の足がかりとして、美濃攻略が必要だった信長。しかし彼の代になって織田家は3つに分かれ、美漉への足がかりとなる犬山城は織田一族でありながら信長と敵対する織田延清の械。この犬山攻めと、同時に川向こうの美濃の鵜沼城、伊木山城の攻略を信長は考えます。しかし当時わずか1500ほどの兵力しかなく軍備も枯渇状態。戦えばとても勝ち目のないことは明らかでした。 ところが、伊木、鵜沼とも無血開城という驚くべき勝利をを信長はおさめます。ここに川並衆の力がありました。川並衆は、その集合体としては2000を超える兵力。さらに伊木山城の城主・伊木清兵衛は、実は川並衆の一人だったのです。美濃、尾張と国の違いはあれ、川初の豪族城主たちは川で生きるものとして友情は非常に厚く、伊木は蜂須賀小六などの説得によって無血開城を決めます。これをきっかけに犬山、鵜沼を攻略した信長は、その2年後、美渡の川並衆・松原内匠見などの力によって墨俣一夜城作戦を成功させ、一気に歴史の表舞台へ登場していきます。戦国時代、尾張と美濃の境を流れる大河は、美濃の斎藤家のものでも尾張の織田家のものでもなく、まさに川並衆の世界。披らを身方につけたものが天下取りの運を得たのです。


1.竹鼻城の歴史資料
竹ヶ鼻城は天正12年(1584年)5月、小牧・長久手の戦いで秀吉の水攻めに遭って籠城1ヶ月で落城した
竹ヶ鼻城の水攻め
天正12年(1584年)長島城にいた信雄は徳川家康の援助を受けて小牧・長久手で秀吉と対決することとなった長久手の一戦で敗北した秀吉は徳川家康との決戦を考え長島城の信雄を攻める作戦に変え、信雄方の加賀野井城と竹ヶ鼻城を攻撃の的とした10万騎をひきいる秀吉は5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させ、竹ヶ鼻城には信雄・家康を引き出すため長期戦の構えをみせた地形を見聞した秀吉は木曽川の支流足近川に目を付け水攻めの作戦を実施した竹ヶ鼻城の東に足近川とつながる逆川が流れており、この逆川堤を利用して町家ぐるみ城を長堤で囲むこととした秀吉は竹ヶ鼻城の北西1kmにある砂山に付城を築き本陣とした(後の太閤山といわれた)築堤工事は5月11日より5・6日間で実施され、高さ3m、幅14・5間、長さ2.6kmの長堤ができあがったこれが太閤の一夜堤といわれるものである足近川の水を一夜堤の中に入れ、水は二の丸まで入り町家は1mも浸水した700人が立てこもる城内では筏を組んだりして対抗したが、町屋では逃げ場を失ったねずみやヘビが押し寄せ婦人や子供はこれに苦しみ死ぬものも多かったという竹ヶ鼻城では信雄や家康に救援の使者を送ったが援軍は現われず、ついに城主不破源六は秀吉の申し入れを受託して開城し伊勢長島の信雄の城へ退却した。この後、鳴海-一宮-美濃加茂の蛭川に足跡を残し、兄の不破彦三を頼って、加賀前田家に仕官し、2500石を賜り、随身した。

 竹ヶ鼻城が滅びたのは、この後で、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦の前哨戦であった岐阜城攻防戦の際西軍に組みした岐阜城主織田秀信の部下として竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門重勝は、応援の毛利・梶川・花村らの諸将とともに木曽川右岸に布陣したが福島正則を将とする東軍に裏をかかれ竹鼻城にたてこもった毛利・梶尾・花村らは降り重勝のみ本丸を死守したが、ついに城に火を放ち自害して果てた以来この城は使われず廃城となった


1.

2.

 
3-1.現在の竹鼻城本丸跡の標柱(羽島歴史民俗・映画資料館 前)


竹鼻城を偲ばせる五輪塔・・・・・・写真-大正10年頃

3-2.竹鼻城を偲ばせる五輪塔・・・・・・写真-大正10年頃

竹鼻城を偲ばせる五輪塔(拡大)

3-3.竹鼻城を偲ばせる五輪塔(拡大)




4.城に係わる図面などは1枚も残存していませんが、金沢市兼六公園にある金沢城・成巽閣所蔵の屏風絵「四戦の図」に竹ヶ鼻城が描かれ、城の規模を知る唯一の資料。 その屏風絵によると、上の拡大絵図のように竹ヶ鼻城は、城郭の奥の木立に高く石垣を積み、その上に二層の建物があり、屋根は瓦ぶき。 その斜め左前には、平屋建ての櫓様のものが一棟建ち、その下に待つ並木と共に上城・下城と思われる町屋が描かれている。 城の周囲は、白壁の城壁が描かれ、斜め北向きに城門と木橋描かれ、白の周囲には水色で堀が全体をとりまいている用に描かれています。 竹ヶ鼻城本丸があった場所は、竹鼻別院の北西に位置する松山大浦線沿いで、現在の羽島市歴史民俗・映画資料館辺りにあったと思われます。 平成8年までは、この道路の北にある畑に「本丸跡」の石碑が建っていましたが、現在は、資料館の西南隅の地に移築されています。

5.竹鼻城(拡大)と不破源六の名前が記載されている。


6.


6.


竹ケ鼻城の字絵図

7.竹ケ鼻城の字絵図の拡大





竹ケ鼻城の戦い(合戦屏風絵図)


関が原合戦と竹鼻城
8.

関が原合戦用の入り組んだ木曽・長良・揖斐川の字絵図

9.字絵図拡大(羽島北部の地名が詳細に記載されています)


10.竹鼻城や大垣・小牧・岐阜城などの配置絵図


11.10の拡大絵図・・・竹鼻城は城郭が2区分されて記載されています。




3.西美濃四人衆・不破光治に付いての各種文献

@出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破 光治(ふわ みつはる、生年不詳 - 天正8年(1580年))は、戦国時代〜安土桃山時代の斎藤氏・織田氏の家臣。不破勝光(彦三)の父。太郎左衛門尉・河内守。

早くから美濃国の戦国大名斎藤氏に仕え稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全たちと共に西美濃四人衆と言われた。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが、斎藤氏滅亡後は織田氏(織田信長・信忠)に仕え主に外交面で活躍した。

柴田勝家に従って越前一向一揆を平定後、越前竜門寺城の城主となった。ともに周辺地域を治めた佐々成政、前田利家らと府中三人衆と呼ばれた。

一説には美濃時代に光治と近隣の竹中半兵衛の間には領地の境界を巡って対立があり、不仲だったとも言う。

A■西美濃四人衆
安藤守就
稲葉一鉄
氏家卜全
不破光治

(注)美濃三人衆安藤守就 稲葉一鉄 氏家卜全
いずれも斎藤家の重臣だったが龍興を見限り、信長に内通した。不破光治を加えて西美濃四人衆とも。

B不破光治(ふわ・みつはる) ?〜1580
通称は彦三。河内守・太郎左衛門尉。美濃国西保(神戸)城主。不破通直の子。
美濃国不破郡の豪族で、早くから土岐氏に仕え、次いで斎藤氏、元亀元年(1570)には織田氏の幕下となる。斎藤氏に仕えていた頃は美濃三人衆に比肩するほどに重用され、三人衆に光治を加えて「西美濃四人衆」と呼ばれていた。
天正3年(1575)に織田信長の越前攻略に従軍し、勲功あって柴田勝家の与力大名として越前国府中10万石を前田利家・金森長近と共に賜り、3万3千3百余石を領有する。
天正8年(1580)12月14日没。

C不破光治(ふわ みつはる) ????〜1580 
○彦三 太郎左衛門尉 河内守
父:不破通直 子:不破彦三直光、彦五郎
 早くから美濃・土岐氏に仕え、後、尾張・織田氏家臣となる。越前攻略に功あって柴田勝家与力となり越前府中を領有、“
府中三人衆”の1人となる。

D府中三人衆 前田利家、佐々成政、不破光治

 1575(天正3)年、越前朝倉氏を滅ぼした信長は、府中10万石を前田利家、佐々成政、不破光治に分封します。これにより利家は39歳にしてはじめて3万3千石の大名となります。彼らは「府中三人衆」と呼ばれ、越前8郡を治める司令官柴田勝家の目付け(監督)役でした。信長勢はこの越前平定にいたるまでに朝倉氏や浅井氏、越前一向一揆衆を滅ぼしており、これらの戦が、利家の北陸地方への第一歩でした。

1575

E龍門寺城

正安元年(1299)悦巌崇善が龍門寺を創建。

不破光治

柴田勝家旗下で府中領十万石を小丸城の佐々成政・府中城の前田利家と均分し府中の治政を行い府中三人衆と呼ばれた不破光治の居城。朝倉討伐や一揆討伐など信長は度々この城に着陣している。