今井 勉検校の「平家琵琶」のご報告 2006.10.17 掲載
今井検校勉氏『平家正節へいけまぶし那須与一』の演奏会に100余名の方々がご参集いただけました。
燭台と和蝋燭灯火で琵琶の響きと検校の歌声が「幽玄の世界」を描き出していました。
100名余の古典文化芸能愛好家に来ていただけました。
平家琵琶 今井検校勉氏の演奏会の案内状
◆当道系平曲 平家琵琶 検校
◆生田流箏曲・三弦・胡弓教授
◆財団法人 国風音楽会会長
現在、日本で唯一の盲人平曲演奏家・今井検校勉氏の演奏をお楽しみいただきました。
京都・当道系平曲について
明治4年に江戸時代の盲人職業訓練所であった当道屋敷が明治維新政府によって廃絶されたことで、盲人伝承による平曲は急速に衰退してしまいました。
しかし、名古屋では荻野検校直系の門弟達が『平家正節まぶし』を受け継いだため、盲人伝承が僅かに残りました。その伝承に大きな役割を果たしたのは、箏曲「千鳥の曲。春の曲。夏の曲。秋の曲。冬の曲。」の作曲者として有名な吉澤検校審一です。
吉澤検校は、荻野検校の直弟子である中村検校に平曲を学び、箏曲を光崎検校に学びました。そして、古典復古主義に傾倒し、筆曲の習得には平曲を併習することが必要であると主張しました。その吉澤検校の弟子の小松検校は当道廃絶後、盲人音楽家の養成を図って名古屋に国風音楽講習所を立ち上げ、勾当・検校などの官制を設けて平曲の併習を義務づけて伝承を守りました。
その伝統は今日の国風音楽会へと繋がり、佐藤正和検校から三品正保検校---平成の時代---今井検校勉氏へと繋がっています。
平家琵琶 今井検校勉氏の演奏会
演 目『平家正節 那須与一』
へいけまぶし
玄関・だるま
入口灯明・なら燈花会でご案内
舞台正面・燭台灯明のみの照明
幽玄の世界へ
「平家正節(へいけまぶし)」「那須与一」口説
那須与一「扇の的」(大和絵)
舞台が始まるまで、名古屋国風音楽会の歴史と検校制度に付いてお話しました。
【口説・詞章解説・ルビ・・・・・・・・・・不破 洋 文責】
※(原則として、字句は「平家正節」に拠り、句読点は琵琶の入る所を示します)
「平家正節 那須与一」 正式装束の今井検校
〔口説〕
爾程(さるほど)に阿波讃岐に、平家を背(そむ)いて源氏を待ちける兵共(つわものども)、あそこの峰爰 (みねほこ)の洞より十四五騎 二十騎、打つれ 打つれ 馳来(かけきた)る程に、判官(ほうがん)程なく三百余騎に成給ひぬ。「今日は日暮ぬ 勝負を決すべからず」とて、源平 互ひに引退く(ひきしりぞく)所に、爰(ここ)に沖の方より尋常に飾つたる、小船を一艘 汀(みぎわ)へ向ひてぞ 漕がせける。渚(なぎさ)七八段にも成しかば、船を横様(よこざま)になす。
(注)七八段≒75m 一段は六間≒11m
「あれは如何に」と見る所に、船の中より年の齢(よわい)、十八九計(ばかり)んなる女房の、柳の五ツ衣(いつつい)に 紅の袴 着たりけるが、皆紅ゐの 扇の 日出いたるを、船の、せがいに挟み立、陸(くが)へ向ひてぞ、招きける。
〔白声〕
判官(ほうがん) 後藤兵衛実基(さねとも)を召して「あれは如何に」と宣へば「射よとにこそ候ふめれ。但し大将軍 矢面に進んで傾城を御覧ぜられん所を 手垂(てだれ)に窺(ねらう)ふて射落せとの謀(はかり)ごととこそ存じ候へ。去り乍ら(さりながら)も扇をば 射させらるべうもや候ふらん」と申ければ 判官「味方に射つべき仁は誰か有る」と宣へば 「上手ども多ふ候ふ中に 下野の国の住人、那須太郎資高(すけたか)が子に 与市宗高(むねたか)とて 小兵にては候ヘども 手は利いて候ふ」と申す。
〔口説〕
判官 「証拠はいかに」 と宣へば、「さん候、翔鳥(かけとり)なんどを争ふて、三つに二つは必ず射落し、候ふ」 と
〔コハリ下ゲ〕 申すっ 判官 「さらば与市 呼べ」とて、召されけり。
〔給〕与市、其頃は未(いま)だ、廿斗(にじうばかり)んの男なり。かちに赤地の錦を以(もつて)て、おほくび袵袖色(はたこそで)得たる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ・もよぎ)匂ひの鎧着て、足白(あしじろ)の太刀を帯き、二十四指(さし)たる桐生(きりう)の矢負ひ、薄切斑(うすきりふ)に鷹の羽割合せては矧(はい)だりける。のた目の鏑をぞ 指添たる。重藤(しげとう)の弓 脇に挟み、甲(かぶと)をば脱ひで、高紐(たかお)に懸け、判官の御前に畏(かしこ)まる。
〔口説〕
判官(ほうがん)「如何に与市、あの扇の真中射て、敵(かたき)に見物(けんぶ)せさせよかし」と宣へぼ、
「仕まつとも存じ候らはず。あの扇 射損ずる程ならば、永き味方の御弓
矢の疵(きず)にて候ふべし。一定(いちじょう)仕らふずる仁に、仰付らるべうもや候ふらん」と、申ければ、判官大きに 怒って、
「那須与一」佳境・今井検校の声は百名余の聴衆に、感動を呼びながら響き渡りました。
〔強声〕
「今度(このたび)鎌倉を立って、西国へ赴(おもむ)かんずる者共(ものども)は、皆 義経が命をば、背く(そむく)べからず。
〔白声〕夫(それ)に少しも仔細を存ぜん殿原(とのばら)は 是より疾う(とう)疾う、鎌倉へ下らるべし」とぞ宣ひける。与市重ねて辞せば 悪かりなんとや 思ひけん。「左候らはば 外れんをば存じ候はず 御定で候らへば 仕つてこそ見侯はめ」とて御前を罷立(まかりたつ)。黒き馬の 太ふ逞しきに 丸ぼやすつたる金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置て 乗ったりけるが、弓取直し 手綱(たずな)かいくつて 汀(みぎわ)へ向ひてぞ 歩ませける。
〔口説〕
味方の兵共(つわどもども)、与市が後を遥かに見送って、「一定 此若者、仕つべう存じ候」と申ければ、判官も頼母(たのも)しげにぞ見給ひける。矢ごろ 少し遠かりけれれば、海の面(おもて)一段計り(ばかり)打入れたりけれども、未(いまだ)扇の合(わ)ひ、
〔コハリ下〕 七段ばかりも、有るらんとぞ見えし。
〔三重甲〕(注)平家琵琶の聞かせどころ(ソロ演奏)。撥捌き が聴き処、見所です。
頃は二月、十八日、酉の剋(こく)計ん(ばかん)の頃なれぼ、折節 北風、烈しくて、
磯打つ浪も、高かりけり。
〔甲〕船は淘(ゆり)上げ 淘(ゆり)置ゑて、漂へば、
〔上〕 扇も 串(くし)に定まらで、ひらめいたり。
〔下り〕 沖には平家、船を一面に並べて、見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを揃へて、是を見る。何(いずれ)れも 何れも、晴ならずと、
〔呂〕 云ふ事なし。
与市、〔下音〕目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別(べっ)しては 我国の神明(しんめい)、
〔上音〕日光の権現 字津の宮(うつのみや)、那須の湯泉(ゆせん)大明神、靡(ねがわく)はくは あの扇の真中 射させて たばせ給へ、射損ずる程ならば、弓切折(ゆみきれおり) 自害して、人に二度 面(おもて)を、向ふべからず。今一度 本国へ帰さんと思しめさば、此矢 外させ給ふな」と心の中に祈念して、目を見開ひたれば 風、少し
〔下〕吹弱つて、扇も射能(いよ)げにこそ、
〔呂〕 成にけれ。与市、
〔下音〕鏑(かぶら)を取て つがひ、強引(つよびき)て ひやうど放つ。小兵といふ条、
十二束三伏、
(注) 十二束三伏=握りこぶし12個と指3本分≒92cm+3〜4cmの矢の長さ≒95cm
〔上音〕 弓は強し 鏑は、浦響程(うらひびくほど)に 長鳴りして過(あやまたず)たず。扇の要際(かなめぎわ) 一寸計り置て、ひいふつ とぞ 射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚(あがり)りける 春風に、
〔走三重〕一揉(ひともみ)み、
〔上音〕 二揉み 揉まれて、海へ さっとぞ 散ったりける。
皆紅の扇の 日 出ひたるが、夕日に耀(かがや)いて 白浪の上に、浮ぬ 沈みぬ 淘(ゆ)られけるを、沖には平家 船端(ふなばた)を叩いて、感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)を叩いて、動響(どよ)めきけり。
「平家正節・那須与一」百余名の聴衆に感動を与え静に終演しました。
終演後、第二部として「秋たけなわ」の時期でもあり、恵那の天然キノコを使ったキノコ汁をお出ししました。(下の写真)