3.大分県
7.宇佐の史跡
2.和気清麻呂の船繋ぎ石と
宇佐・東光寺五百羅漢石仏
宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきたがどうも真相は闇の中のようです。事の発端は神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望む(続紀没伝)。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。和気清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する・・・・。その後失脚させられて、大隅国へ流罪にあったり、道鏡の皇位簒奪疑問説が出されたり、宇佐八幡宮は本来は九州地方固有の神を祀った神社であったとも言われている宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと言われたり、宇佐八幡宮側の内部事情説と言われたりして、どうも真相は闇の中のようです。
宇佐・東光寺五百羅漢石仏
五百羅漢像のある医王山東光寺
建立は不明ですが、貞治元年寅年開山したと言われています。医王山と号し、曹洞宗のお寺です。本尊は薬師如来で、他に古仏も安置されています。
医王山東光寺は五百羅漢のお寺としても有名です。安政6年、王峰道和尚は干害に苦しむの住民を救うため日出の石工吉野覚之丞に依頼して安政6年(1859)から明治15年までの24年間に521体の石像を彫り上げたそうです。その表情は多彩です。
3.大分県
7.宇佐の史跡
2.和気清麻呂の船繋ぎ石と
宇佐・東光寺五百羅漢石仏・・・・おしまい