岡山・総社市関連史跡
1.吉備津神社備中国一宮
岡山県岡山市吉備津931
 社伝によれば、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山山頂に葬られた。吉備津彦の5代の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営して吉備津彦を祀ったのが当社の始まりと伝える。要文化財は南随身門 、随身門 、釜殿 、造獅子狛犬 がある。

吉備は古代、畿内出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されて行った。古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、後に埴輪として古墳時代に全国に広まった。5世紀にヤマト政権内で権力を掌握した大泊瀬幼武大王(諱名:雄略天皇)は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけ、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備の勢力を削減させている。 6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からのの生産地であり、さらに6世紀後半には生産が開始された。造山古墳作山古墳は建造当時で全国最大級、日本全史を通じても全国4位・9位の巨大さを誇り、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。だが、築造された時代も被葬者も不明のままである。

吉備氏は主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫出雲ヤマト毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の統一と発展に寄与した。吉備国内の造山古墳(全国第4位)・作山古墳(全国第9位)などの巨大前方後円墳は、その首長のとして往事の勢力の大きさを今に伝えている。しかし、列島統一過程で「中央」となったヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」の名目で勢力を削がれた。また、8世紀の史料によれば、出雲国近江国紀伊国大和国にも吉備部など「吉備」を冠する地名が西日本の広範囲に存在する。


吉備津神社本殿










































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1.吉備津神社
          
おしまい