三重県多気郡明和町
  多気郡明和町関連史跡
1.齊宮跡(さいぐう・いつきのみや)

伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)であった。普段はここで寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に三度、6月の月次祭9月の神嘗祭12月の月次祭の「三節祭」に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕え、137ヘクタールあまりの敷地に碁盤目状の区画が並ぶ大規模なものであったことが、遺跡の発掘から明らかになっている。特に、緑(青?)釉陶器の出土は特徴的であり、この色に何か意味があった可能性も考えられる。なお、斎宮跡は1970の発掘調査でその存在が確かめられ、1979に国指定史跡としての指定を受けて、現在も発掘が続いている。

 斎王(さいおう)制度は天武天皇の時代から始まった。南北朝時代まで約660年間続き、大津皇子の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)を初代に60余名の斎王が伊勢へと赴いている。斎王は未婚の皇女に限られ、ト定(ぼくじょう)という亀の甲羅を焼く占いの方法で選ばれたという。斎王は選ばれると、都で3年の潔斎の後、斎王に仕える官人・官女ら約500人の供まわりを連れ、5泊6日の行程で伊勢へと郡行した。中には選ばれたとき2才だった幼女や、群行時32才の斎王もいた。天皇の譲位、崩御、近親者の喪に際して任を解かれ、大体任期は10年未満だった。

 
斎王の最も重要な務めは伊勢神宮の三節祭り(612月の月次祭(つきよみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))への奉仕。20km離れた神宮(伊勢神宮:正式には伊勢神宮は神宮と呼ぶ)へ1泊がかりで赴いた。普段の生活は祈りの日々を過ごし、また和歌を詠んだり、貝会わせのゲームに興じ、宮廷のような生活が営まれていたらしい。最も華やかだったのは平安時代で、「伊勢物語」「源氏物語」などの平安文学に登場。伊勢物語では主人公と斎王とのロマンスが描かれ、題名の由来にもなったとされている。

   斎王制度も承久の乱の後、(後鳥羽上皇の時より)斎王の不在期間が多くなり、南北朝動乱の中で終わりを迎えている。武家社会の到来ととも  にその歴史を閉じたのである。(斎宮跡・三重県多気郡明和町より)











































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1.齊宮跡(さいぐう・いつきのみや)・・・・おしまい
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