岐阜県大垣市矢道町矢道・長塚古墳(やみち・ながつかこふん)
大垣市矢道町の田圃の中に残されています。四世紀後半の全長87mの前方後円墳で、左右で周濠の形が違う珍しい構造です。墳丘はかなり削平されており。後円部は主体部だけが円墳のように独立して残されています。2004年の調査で南側に隣接して方形周溝墓群が発見されました。
矢道・長塚古墳の「矢道」の由来に関するお宮。
矢道御由緒
昭和4年に埋葬施設から三角縁神獣鏡5面や石製腕飾類が大量に出土し、美濃における大和政権の影響を強く受けた前期の前方後円墳である矢道長塚古墳で、範囲確認調査が行われ、周濠の形が左右で異なっていることが判明しました。北側は陸橋を持つ盾型、南側は前方後円形に沿った形をしており、北側からの景観を重視した築造がなされていました。また、周濠の南側に6基の削平された方形周溝墓群が検出されましたが遺物がほとんどなく、年代の特定はできていません。
遠目、前方後円墳とはほど遠い形の藪。
左が後円部の部分。右の藪が前方部の近景。
左が後円部の部分。右の藪が前方部の遠景。
反対側(南側)から見た左・藪が前方部。右が孤立した後円部
北側から見た藪が前方部
前方部の上にはトタン板囲いの荒れ果てた小屋。。。
前方部西南部に環濠を忍ばせる「用水」
南東部から見た前方部の「くびれ」当り。
調査時の前方部。開削されて田圃にされていますが、現在は、誰も耕作していないのか、荒れ果てて居ました。
ここが主体部で、後方部とは切り離された無惨な玄室部のみ、石垣で囲った在りました。
石垣で囲った後援部主体部上の記念碑。
調査時の前方部。
現在の前方部。竹藪に成っていました。
石柱も草と藪に囲まれて見過ごしそうでした。
高塚古墳
大垣市矢道町の長塚古墳のそばにありましたが、大正時代に土取りのために消滅し、現在は石碑だけが建っています。五世紀前半の全長70m以上の前方後円墳で、主体部は竪穴式石室でした。
高塚古墳・大垣市矢道町の長塚古墳のそばだと聞いて探し回りましたが不明。、この木立の当りか?、
矢道・長塚古墳から見た北部・金生山方面。
矢道・長塚古墳から見た西北部、池田山。
矢道・長塚古墳から見た伊吹山。大王は伊吹山と垂井の山々に囲まれた扇状台地に墳墓を造ったと思われる。
矢道・長塚古墳(やみち・ながつかこふん)
おしまい