東日本大震災
 宮城県各地の津波被災状況
  と石巻医師会義援金贈呈報告

  1.南三陸志津川町の津波災害復旧状況と伊里前小学校周辺

  2.石巻市日和山公園から見た港地区と石巻市内と石巻医師会義援金贈呈
  3.宮城県東松島町・亘理町
(わたりちょう)・岩沼市・名取市-仙台空港周辺の震災復旧状況報告。

報告本文

2011.07.07-8-9の3日間、人生の中で、こんな体験を出来たことは、何物にも代え難い経験になりました。私一人では、見聞出来ないことを、羽島市防災課とタイアップ出来たことで、一般人では見聞出来無いところまで見聞して来ましたので、報告いたします。

 7月7()花巻空港を午後2時に出発して、レンタカーにて、午後3時40分、南三陸町へ到着。南三陸町志津川での目視は、唖然・呆然・愕然でした。カルチャーショックは伊里前小学校での、校長先生・教頭先生・岐阜県羽島市正木小学校(私・不破が居住する小学校)から7月に派遣された、山田洋梨子養護教諭との会談では、「悲しみを共有することは、現時点では最大の被災者に対しての支援」になる事を実感しました。
 口では表現できないほど、生徒児童や先生方の経験された災害の傷は深いです。
(※伊里前小学校は天皇皇后両陛下が黙祷を捧げられた小学校です)


1.南三陸志津川町の津波災害復旧状況と伊里前小学校周辺
























南三陸志津川町立伊里前小学校

 (教頭先生談・・・記憶頼りで確実では在りません)南三陸町も日本の何処とも同じく、コンビニもスーパーも在り、何時でも何処でも、買いたい物は買える環境にありました。水も電気もそうでした。そうした「当たり前」の環境が、一変したとき、『私たちは何を生徒に教えてきたのか』と、声を詰まらせられました。被災した後、何も出来ない無力さに、打ち拉がれました。咄嗟の判断、状況判断も鈍って居ました。子供達を護るのに、今何をしたらよいのか・・・呆然としていました。校長先生が最終避難場所として引率した中学校から、10m下の小学校に戻る、安全を確かめるのに、何も方法が在りませんでした。津波は引き、安全に思えても『決定を躊躇していた』。中学校の父兄の携帯ラジオが唯一の外部情報で、東北の太平洋岸一帯が津波被害に遭っている事を知り、『大変なことになっている』と理解。安全を確認して、小学校に戻ったときは薄暮の6時。トイレが使かえない。校舎の一階部分は45cm床上浸水で、ヘドロと油で真っ黒。二階避難所(講堂)への通路確保のため、先生方や父兄の方々がモップで、泥水を履き出しました。照明装置を確認。懐中電灯3個。理科で使った蝋燭20本()。飲料水・食料無し。(この間に、父兄で手分けして被災を受けていない集落に救助を求める)校庭に駐車してあった父兄の車は、すべて津波に浚らわれる。道路寸断で外部との連絡付かず。雪の降る寒波の最中で、220名生徒全員の命は救えたが、夜の寒さを凌ぐ方法無く、各教室からカーテンや暗幕を外して夜具の代わりにするも、暗闇の恐怖と寒さと空腹で子供達も自分たちも震え止まらず。携帯・メール・電話一切不通。連絡手段無し。9時に父兄と被災しなかった地区からの()炊き出しラップ御握り220個届けられる。ゴルフボールより少し大きめ。食べる子供もいましたが、握りしめたまま、食べない子達も多数。恐怖のフラッシュバックや寒さなどストレスの為に食欲が無いのか。中学校から見た津波の光景は凄まじく、祖父母が津波に浚われて行くのを見た子供達。親達が働いて居た、町ごと家々が津波に浚われ、そして津波が去った後は、何もかもが消えていた情景を見ていた子供達も先生方も、現実が認められない。悪夢を見ているような、呆然自失の状態でした。急に泣き出した子供の声につられて、あちこちで泣き出す子供達。我に返って、女性の先生方がハグして泣きやます。上級生が校歌を歌って励ますも、室内は蝋燭だけで、真っ暗。蝋燭はトイレ前と階段上下、講堂の入り口の4本。10時頃、父兄が手分けして、被災していない地区から集めた段ボールを床に敷いてから、少し寒さから凌ぐことが出来た。翌朝まで、まんじりともせず。翌朝、父兄から、御握り、一人2個。『これで被災しなかった地区からのお米は尽きました』とのこと。当然、助を求めて、山越えで隣の町=登米市まで30q()徒歩。講堂内を動き回る低学年の子に『お腹減るから、動くな!!動くな!!』と諭す上級生。涙吹き出し、勇気を貰う先生方(自分たちはおにぎりが少なく、丸2日水しか口に出来ず)。3日目に山崎パンとペットボトルの水届く。4日目もパンと水。5日目にボランティアが豚汁の炊き出し。子供達が歓声を挙げて走り回わる。『もう一杯頂いても良いですか?』と上級生。暖かい食事がこんなに子供達に笑顔と元気をあたえるのだ・・・ということを実感。以下、教訓。

1.学校は災害避難所になる(市町の防災・教育委員会・父兄会との協力体制必要)

2.ライフラインは完全に止まることを想定(電気・通信・携帯・パソコン・水道・交通=車・食料・飲料水)

3.避難所には最低、2日分の次の物を備えておく必要あり。

  1.照明装置(電池式LED照明や自家発電機=ガソリン)
  
2.寝具(毛布・発泡スチロール床マット・ブルーシート) 
  
3.備蓄食品(乾パン) 
  
4.飲料水(ペットボトル) 
  
5.簡易トイレ 
  
6.携帯ラジオ---情報収集
  
7.ハンドマイク(拡声器)=電池の予備が必要







羽島市防災から羽島の名水・ペットボトルを山田洋梨子養護教諭に贈呈。
この7月7む日時点で、小学校には飲料水は毎日220本配給されていました





2.石巻市日和山公園から見た港地区と石巻市内と石巻医師会義援金贈呈

 7月8()午前10時に石巻医師会館に義援金目録を持って行きました。松島から石巻は40分。9時には石巻市の『日和山公園』に到着。ここは海抜40メートルで、石巻港から北、500m位にあります。港地区が一望出来ます。

 港地区と言うより、「日和山公園」の真下まで、壊滅しており、津波は港のバイパス橋=日和大橋(海抜20m位のレインボウブリッジ)の上を乗り越えて入って来たと市民から聞きました。

 日和大橋の近くの石巻市立病院は5階建。病院は建っていましたが、診療機能は壊滅していました。この地区にも、何軒かは建っていましたが、近づいてみると、形を残して建って居るだけで、屋内部は壊滅です。形が残って居るだけ、無惨です。蝿がブンブン飛び回っていました。腐敗臭が鼻を突き、医師会で配布された3M製のN95マスクは役に立ちました。匂いも消え、呼吸も楽でした。

 日和山の東100mに旧北上川(川幅≒300m)が流れ、ここを津波が遡って、3Km北の石巻駅を通り越し、石巻日赤病院の直前≒6kmまで迫りましたが、ここで止まりました。

 石巻駅の目の前に市役所があり、100m東に石巻医師会館があります。石巻医師会館は床上50cm浸水。5日間海水が引かなかったそうです。一階は併設の付属臨床検査センターや医師会事務所・看護学校事務所が浸水して、事務所機能喪失。枡(ます)眞一医師会長は会員の消息を掴むのに、3日間、足で探したとのこと。(事務方が動いて各会員の消息を把握したとのこと)

 電気・携帯使えず、道路は瓦礫の山・交通手段は「」足しか無かった・・とのこと。このため、市医師会で携帯無線機を購入して、各避難所の会員渡して、状況把握。枡医師会長の指令で、会員を避難所に派遣したとのこと。

 石巻医師会会員は70名、被災者は80%。60名近くが浸水被害。佐藤看護学校長は「日和が丘公園」の下で開業。一階部分は天井まで浸水。復興不可能・・・とて、日和山公園の高台で開業している弟さんの診療所で、間借りして働いて居られるとのこと。

 看護学生は2年生で1名死亡。1年生で、家が消失して、入学辞退した人1名。学校は3階にあり、無傷。4月21日に10日遅れの入学式を行い、実質1ヶ月遅れで、授業開始したとのこと。

 石巻市内は7月8日の時点で、電気が部分的にしか来ておらず、市内の中心部は信号が点灯していなくて、警視庁の警官が各辻・辻に立って、手旗交通整理をしていました。昭和25年のころ、岐阜市で見た覚えが。。。

 まだ、市内はシャッターが下りていて、商店街は店舗が開かれていませんでいました。市役所の一階部分はシャッターが下り、動いているのかどうか、通りすがりでは分かりませんでした。兎に角、町は復興していません。

 石巻市民は15万人。死者は3000名。行方不明者、1000名。4000名余が亡くなったとの報道を見せていただきました。

 枡会長は診療を中断して会見されました。言葉にならないほど、義援金を喜んで居られました。佐藤看護学校長は、初めは無口で、一言もお話されませんでしたが、会談1時間もしたら、饒舌に被災したときの状況・医師会に必要な災害対応などを、的確に助言してだきました。

 被災された会員の内、70パーセントは8月までには診療を始められる見込みがたったと報告されました。7月現在では50パーセントの会員が診療活動を始めている・・との事。なお、枡会長の診療所は浸水が少なく、何とか7日間で診療に漕ぎ着けたと言われました。 

 診療は診療所では保健診療で、被災した住民は体育館など「避難所」で診療を受けたそうですが、いずれも、「診療費は無料」のため、避難所の医師と診療所の派遣医師とのトラブルは無かったと言われました。患者さんも、掛り付け医で診療を受けることを望んでいたそうです。

 また、「避難所の診療」は風邪程度しか診ず、重症者は石巻日赤病院に送り込み、泥水を吸い込んだ肺炎は少なく、雪が降る程寒かったので、手指・足先の凍傷患者が多く、破傷風も肺炎もそんなに多く無かったとのこと




















3.宮城県東松島町・亘理町(わたりちょう)・・・羽島市防災課と共同した視察

 亘理町(わたり)では、決して一般人が見ることが出来ない、膨大な支援物資の整理整頓された集積場(体育館)を防災担当の配慮で見せていただけました。羽島市防災課と共同した視察は良かったです














3.宮城県岩沼市周辺の震災復旧状況報告






3.名取市-仙台空港周辺の震災復旧状況報告。





東日本大震災宮城県各地の津波被災状況と石巻医師会義援金贈呈報告
  1.南三陸志津川町の津波災害復旧状況と伊里前小学校周辺

  2.石巻市日和山公園から見た港地区と石巻市内と石巻医師会義援金贈呈
  3.宮城県東松島町・亘理町
(わたりちょう)・岩沼市・名取市-仙台空港周辺の震災復旧状況報告。・・・・・おしまい