1.新潟県 00.十日町市博物館と火焔土器(第一回・・・2009.6.26 掲載)
01.笹山遺跡(火焔型土器出土遺跡)
02.十日町博物館 野外遺跡
03.ロビーの火炎土器(複製品)で予備知識。
火炎土器の基礎知識
火焔土器とはいかなるモノか
小林達雄・新潟県立博物館館長
昭和11年12月31日、まさに大晦日、その「短い冬の日の夕暮れ」、近藤篤三郎青年
の手によって長岡市馬高遺跡より火焔土器が掘り出された。
出土のときは押し潰されて破片の状態であったが、1個体分に纏まりそうだというこ
とで、接合し復元しょうと思い立った。
当時、近藤家に出入りし、考古学にも興味を抱いていた室岡博が早速に取りかかり、
苦労の末何とかカタチに仕上げることができた。
昭和26年、長岡市立科学博物館が開館し、近藤勘治郎、篤三郎父子の収集品と蔵書が
全て寄贈された。
中村孝三郎は考古部長に就任するや、直ちに火焔土器を解体復元し、今日の姿に仕上
げた。 そして、火焔土器の造形に注目し、事あるごとに世に宣伝した。まさに名伯楽
として、後見人として大きな役割を演じたのである。
昭和32年、湯川秀樹が来館し、中村の慫通で火焔土器と対面するや「長いこと釘付け
られて佇み、世界の博物館美術館は随分沢山覧てまわったが、これ程の土器にはかつて
お目にかかった事はない。何という素晴らしいだろうと口を極めて心から感嘆」(松岡)
した。
おりしも、松岡譲は筆子夫人と博物館の真後ろに住まわれて、もう一人の火焔土器の宣
伝部長をもって任じ、やがて自らも縄文人への想いを深めていったのである。
岡本太郎が縄文土器に日本を発見、熱い眼差しを注ぎ続け、ついに火焔土器を求めて
長岡から津南までやってきた。
その足跡は幾枚もの「火焔土器」の色紙に残されている。
新潟県立博物館「火焔土器の研究」より抜文
1.新潟県 00.十日町市博物館と火焔土器(第一回・・・2009.6.26 掲載)
01.笹山遺跡(火焔型土器出土遺跡)
02.十日町博物館 野外遺跡
03.ロビーの火炎土器(複製品)・・・おしまい
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