2.福岡県 八女市吉田  筑紫君磐井の岩戸山墳墓(被葬者の名前が分かっている数少ない古墳)
 2.岩戸山古墳と別区・・・筑紫君磐井の墳墓
岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市八女(やめ)古墳群にある岩戸山とよぶ前方後円墳。国の史跡に指定されている。墳墓は全長約135メートル、後円部径約60メートル、前方部幅約90メートルの前方後円墳であり、九州地方最大級である。不通、古墳の前方部は南に向いているが、この古墳は東西を主軸にして、前方部がにある。その北東部分に別区と呼ばれる40m四方の広場状の区画がある。風土記逸文にいう、盗みをした咎人の裁判を行っ手入る風景を石人や石猪が配置して、人々に広く知らしめる場所として、全国に無い史跡として注目されている。墳墓からは、大量の石人、石馬意外にも細工された石が発掘され、磐井氏の繁栄ぶりを示している。
 500年代、6世紀に、北部九州を支配していた筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の墓として、葬られた人の名前が分かっている数少ない墳墓。『日本書紀』の現存する最古の注釈書である『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)に引用されている『筑後国風土記』(ちくごのくにふどき)逸文に、古墳の位置、所在、古墳の主の名、古墳の規模や特色などが簡潔に書かれている。その引用文から磐井の墓であると考えられるようになり、やがて定説となった。磐井は、『記・紀』では「筑紫国造磐井」と表記され、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」(つくしのきみいわい)と表記されている。継体天皇の倭の時代は、「謀反者」と見られていたにも拘わらず「国造」「君」の称号が使われている。磐井は、527(継体21)に近江臣毛野が6万の大軍を率いて任那に向かおうとした時に、肥・豊の兵を動員して倭の軍を阻んだとされている。そこで翌528(継体22物部麁鹿火(もののべのあらかい)を継体天皇が更に群を増強して派遣して、ついに「筑紫君磐井」は「御井」の戦いで惨殺された・・・・と200年後の奈良時代に入ってから編纂された「記・紀」に書れている。しかし、一方で磐井は「惨殺」されずに大分国東へ逃れて生き延びたという話が「筑紫國風土記逸文」に残っていて、地元にもこのことが伝承されて残っている。




































































































2.岩戸山古墳と別区・・・筑紫君磐井の墳墓・・おしまい
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