呉秀三と精神医学


 1886(明治19)年に,榊 俶は東京帝国大学医科大学で初めて精神病学教
 授として精神病学,看護法の講義を始めた.榊の後,精神病学は法医学の
 教授,片山国嘉が担当した.
 呉秀三はオーストリアおよびドイツヘの留学から帰国して,1901(明治
 34)年東京帝国大学医科大学の精神病学講座の教授となった.呉はドイツ
 でエミール・クレペリンについて学び,日本ではクレペリンの精神医学が
 主流となった.呉は医科大学の教育病院である東京府巣鴨病院(後の都立
 松沢病院)の院長を兼ねて,その運営を大改革して,精神病院のあり方の
 基礎をつくった.診療の第一線の指導者として多数の精神病学の専門家を
 養成し,その人々が各地の大学の精神病学の教投となった.さらに,
 1902(明治35)年に日本神経学会(後の日本精神神経学会)を創立した.
 呉は日本の精神医学の実質的な創立者である.
  呉はまた,精神病者の処遇にも改革を加えた.患者の拘束具を外して破
 棄し,松沢病院の建設にあたっては,ドイツのそれを摸して分棟式を採用
 し,さらに患者の農耕,畜産などの作業場をつくった.後に加藤晋佐次郎
 は作業療法により,病院内に池と築山による庭園を築き,作業療法の実践
 により学位を得た.呉は,1918(大正7)年に「精神病者私宅監置ノ実況」
 を発表し,「我邦十何万の精神病者は実に此病を受けたるの不
 幸の外に此邦に生まれたるの不幸を重ねるというべし」と激しい怒りを表
 明した.
  精神病者慈善救治会は患者に対する民間の慈善団体で,1902(明治35)
 年,呉の提唱により創立された.会員には大学教授夫人,巣鴨病院従業員
 などが参加した.その活動は,入院患者の慰安,作業療法器具の購入,会
 報,パンフレットの作成などであった.救治会は戦時中,精神衛生協会そ
 の他に統合されて,途絶えた.