「仏佐吉画伝」再刊記念とへの贈呈式

   令和元年12月18日 水曜日pm1:30~ in 永田佐吉堂














「仏佐吉画伝」再刊にむけて

          元 美濃竹鼻町づくり委員会 「仏佐吉の画伝」編集委員長
                   
羽島市文化財審議委員長   不破 洋

  二十一世紀は「(こころ)」の時代、とりわけ「親孝行」が大切になるだろうと言われています。ともすれば親にも、自然にも、優しくしてもらうのが当たり前になり「親孝行」が死語化している今日この頃、あらゆる世代で横行しているイジメや、年老いて寝たきりになった親の介護をどうするかなど、現代にあふれている問題解決のキーワードは「親孝行」だと考えます。

  美濃竹ヶ鼻が生んだ永田佐吉翁は、少年時代に多くのイジメにあいながらも、くじけず、ひがまず、憎まず、懸命に頑張りぬきました。

  そして、その生涯を通して、地水火風・生きとし生けるものすべてに感謝する日々を過ごし、母(継母)には孝行を尽くしました。

 昭和21年・戦後間もない時に、武藤重造氏によって企画編集された「仏佐吉の画伝」(羽島市歴史民俗資料館蔵)に一貫しているのが、まさにこのキーワード「親孝行」です。そこで永田佐吉翁の孝徳を広く知ってもらおうと、復刊することを平成85月に「美濃竹鼻まちづくり委員会文芸部会」で企画し、6名の女性編集委員をつのり、毎月一回例会を開いて、武藤重造氏の「文語体」の文章を、今の子達が読めないので、「口語体」に直す作業をしました。絵は不破春香の原画を使い、平成94月、元竹鼻町自治会長、故加藤信夫氏の資金的協力を得て発刊いたしました。

 あれから四半世紀。今では仏佐吉の画伝」は絶版になっていましたが、平成85月に立ち上げた「美濃竹鼻まちづくり発起人」のメンバーが集まり、当時の「運営資金残金」を使って「仏佐吉の画伝」復刻再出版の運びとなりました。

 今回は、一回り大きくして、ハードカバー版で保存性を重視した仕様にしました。画伝の写真は羽島市歴史民俗資料館で改めて撮影しなおしました。

「仏佐吉画伝」は、「武藤重蔵」と言う、若い時から郷土史の調査研究家で、その実績が買われ、1958年「羽島市史編纂調査委員長」として活躍され、その上、竹鼻町収入役や助役を努められた氏の肉筆による文語体の本文と、武藤氏の知人で竹鼻の絵師(名古屋の石河有隣に師事)・不破春香氏に依頼して描かれた佐吉画伝を、終戦直後の1946(昭和21)に昭和天皇巡行に合わせて、合作した縦・89cm 横・73cm の彩色画です。

永田佐吉翁の孝徳の伝承を目的とし、その孝徳を絵物語にされた、武藤重蔵氏と不破春香氏のお二人の功績を讃え、その偉業を伝承するために「仏佐吉の画伝」再刊いたします。

  不破春香(1879.8.11962.12.11)氏。本名・廉一は羽島市竹鼻町新町の医師、不破震吉(18501885、羽島市正木町不破一色の医師・不破杏斎=為信の末弟)の長男として誕生。 六歳で、父と死別し、父の実家(不破一色)に預けられました。幼少時より画を好み、青年期には名古屋の石河有隣に師事。二十歳を過ぎてから、実弟の養子先、竹鼻町福江の大野家に身を寄せ、機屋の仕事を手伝いながら画家の道を研績。苦労の末、画家として独立後結婚、二男二女をえます。五十九歳で妻と死別後は、独り暮らしで画業に励みました。一九四六年十月、武藤重造氏の依頼で、昭和天皇の巡行を記念して「仏住吉の画伝」を描きました。氏の画風は気負いが無く、淡々としながらも繊細な筆風に好感が持たれ、羽島市内の多くの家に愛蔵されています。

 武藤重造氏は(一八九三、一九六九)廉一と命名されましたが一九二三年に重造と改名。名古屋市立商業学校を卒業後、一九一人年にシベリア出兵。太平洋戦争中は竹鼻町収入投を務め、一九四〇年助役、五三年に竹鼻町長となられ、昭和二十九年に羽島市制を実行した第一人者。趣味として若い時から郷土史を調査研究、その実績が買われ、一九五八年「羽島市史編纂調査委員長」として活躍されました。著書に「竹ケ鼻城」 「竹鼻町小史」などが羽島市図書館に所蔵されています。「仏住吉の画伝」 (一九四六)は、永田佐吉を尊敬する氏の肉筆による文語体の本文と、知人の不破春香氏に依頼した絵を和紙に合作したもので、羽島市歴史民俗資料館に保管されています。
 

***********************************************************************************************************

『仏佐吉の画伝』再刊に寄せて  
 永田佐吉 末裔 佐吉堂々主 永田 章

 この度『仏佐吉の画伝』が再刊されることになりました。永田佐吉翁の末裔たる私に取りましては、これ以上の喜びはありません。この記念すべき再刊に寄せて、拙い文ですが、私の思いを綴らせて頂きます。

 佐吉翁は江戸時代中期に、今日では多くの方から佐吉大仏と呼ばれている釈迦像を建立しました。私の生まれた家はこの大仏に隣接していて、幼い頃から大仏と共に過ごしてきました。
昭和37年にお堂が再建され「大佛寺」として法人化されるまでは大仏は露座の状態で、その周りは近所の子ども達の格好の遊び場になっていました。子どもの遊びと言えば鬼ごっこや縄跳びが思い浮かびますが、佐吉大仏ならではの特別の遊びがありました。それは大仏の上に登って手のひらに腰掛けたりお腹の中に入ったりすることで、近隣の子ども達は男女問わず皆そうしていました。半世紀以上を経た今でも子ども時代の忘れがたい思い出として語られる方も大勢みえます。

 もう一つ「原風景」と呼ぶべき光景が私の脳裏に刻まれています。佐吉大仏の境内は近所のお婆さん方のたまり場になっていて、四方山話に花を咲かせていました。聞き耳を立てていますと、一番盛り上がるのが嫁の悪口です。そこへ私の祖母がのっそりと近づいていき、「嫁の悪口など言うものでない。感謝の気持ちを持たねばどうします!」とたしなめたものでした。すると、お婆さん方は、大仏に手を合わせて、心を静めて家に帰るのでありました。

 私はこの祖母より常々「大仏をこれからずっとお守りしていきなさい」と言われ続けました。その所為もあってか祖母の言いつけは頭にしっかり叩き込まれており、大人になってからも「大仏第一」という思いは消えることはなく、私の人生全体が大仏を中心としたものと言っても過言ではありません。

 一方、佐吉翁については余り詳しく知ることはありませんでした。先祖と言いましても八代も離れていますし、お盆の時にお墓参りをするくらいのお付き合いで、大仏のように身近に感じることは少なかったのです。翁の事跡は中学校の郷土史で若干触れられるものの、それ以外に佐吉翁の話題が上ることも少なく、立派な方とは思っていましたが、あくまでも近隣地域に限定された奇徳な人物というように捉えておりました。

 私が佐吉翁の人徳の素晴らしさに心打たれると共に、多くの方から長い年月を通じて敬愛され続けてきたという事実を知ったのは、2007年職業としていた教員を若干早めに辞めて、佐吉大仏を本尊として祀る大佛寺に本腰を入れ出してからのことでした。

 調べてみますと、佐吉翁は生前より「仏の佐吉」としてよく知られていて、その事跡は江戸時代を代表する著名人集『近世畸人伝』にも載せられていますし、江戸時代のその他の書にも紹介されていました。

 明治に入り学校教育が始まってからは、修身教育の中心人物の一人として日本全国で教えられました。修身において県内で佐吉翁ほど尊敬されている人物は他にいませんので、岐阜県の学校では更に多くの時間を取って詳しく教えられました。
 驚かされた実例を挙げてみます。私は、インターネットや図書館を通じて、明治33年に発行された岐阜県尋常小学校の地理の教科書と教師用指導書のコピーを手に入れました。地理の時間に教えられる人物は県全体で6名に過ぎません。その一人に佐吉翁もいるのですが、教師用指導書を見ますと、翁を除く5名を合わせて33行の記述量ですが、佐吉翁は一人で57行も占めています。ちなみに岐阜市には60行、大垣町は57行です。これが地理の指導書であることを考えれば驚くべき記述量と思わざるを得ません。かつて美濃聖人と称えられていたのもむべなるかなと思いました。

 しかしながら、第二次世界大戦で日本は敗北し修身の授業は廃止されて、佐吉翁は教育の場から姿を消しました。しっかり調べなかった私にも責任があるのですが、佐吉翁が忘れ去られ捨て去られる時代背景の中で育っていったことも、翁に真剣に向き合えなかった要因であったと思います。

 戦後長らく佐吉翁についてまとめられたものと言えば、1959年に発行された竹ヶ鼻町制最後の町長を務められ、郷土史家としても活躍された武藤重造氏の『佐吉さま』一冊だけでした。この本は佐吉翁の事跡を知るために必須の基本文献ですが、江戸時代の資料が生のまま記載されているなど、一般の方では馴染みにくいもので、多くの方の目に触れることはなかったと思います。

 その後40年近い年月を隔てて、1997年本書の前身となります『仏佐吉の画伝』が「美濃竹鼻町づくり委員会」の皆様方によって発行されました。不破春香氏の親しみやすい絵を中心に添えられた同書は、読む人ごとに佐吉翁に対する敬愛の念を喚起し、謂わば佐吉翁復活ののろしを上げるものと言って良いものでした。

私が代表を務めております大佛寺でもパネル化したものを壁面に展示しており、多くの方が熱心に見入っておられます。何人もの方から佐吉翁の人徳を称える声と「もっと多くの方に教えてあげて欲しい」という熱心な要望を聞きました。

  思いますに、佐吉翁の人徳は、「公益」、「勉学」、「正直」など今日も大切なこととして教えられていることと同時に、「陰徳」、「報恩」、「親孝行」と言った、今日些か忘れられかけている日本人が非常に重要としてきたことの両面を含んでいます。偉人伝が必要なのは創作では得られない強い感化の力を含んでいるからです。日本人が「良い心」とすることの全てを体得し、自分の人生を実践的に生き抜いた見事なお手本が佐吉翁の生涯です。

 翁に対する思いは尽きませんが、長くなりますのでこの辺りにしたいと思います。

今回の再刊に際しては旧版より本が大型化され、読む方に訴える力も一層大きくなったと思います。読者の皆様方には、一頁一頁をじっくりと眺められまして、佐吉翁の人徳に触れて頂きたいと心からお願い申し上げて、再刊に寄せる挨拶のまとめとさせて頂きます。

                                   「完」