@華岡青洲の弟子が採集の薬草標本、
         宮城県内で見つかる

          (読売新聞) 平成17年 1020168分更新

 全身麻酔による世界初の乳がん手術を手がけた華岡青洲(はなおかせいしゅう)(1760〜1835年)に学んだ一関藩の藩医が、青洲の医塾のあった和歌山県で採取した薬草標本と薬箱が、宮城県内で確認された。

 調査した国立科学博物館の研究チームは「薬の処方、麻酔術などの医療技術が地方にどのように普及したかを示す貴重な資料」と評価している。

 標本などが見つかったのは、宮城県登米市石越町で医院を開業する佐藤良友さん宅。佐藤家は7代続く医師の家系で、標本を作ったのは2代目の玄達だ。玄達は1815年、紀州名手平山(なてひらやま)にあった青洲の医塾「春林軒」で学び帰郷。藩医の傍ら地元に医塾を開いた。

 標本の表紙に「紀州名手平山取處(とるところの)薬草」とあり、裏に玄達の署名がある。消炎・鎮痛作用のあるクララ、利尿作用のあるスナクサ、外傷の軟こうに使うハコベラなど三十数点の植物が押し葉にされている。青洲に学んだだけに、外傷治療、麻酔からさめるときに使う気付け薬などの薬草類が目立つ。

 薬箱にも、チョウセンアサガオから作られる全身麻酔薬「通仙散」や軟こうなどが入っていた。

 調査した中村輝子・東京理科大薬学部講師は「学んだことを故郷で実践する医師の意気込みが伝わる。青洲の弟子は多いが、これだけの医学資料が残存するのは非常にまれだ」という。

 植物標本は来月、登米市歴史博物館で公開される。

                                      (読売新聞) 平成17年 1020168分更新

(2)麻酔術「門外不出」説覆る 華岡青洲から杉田玄白一門に

 江戸時代の外科医、華岡青洲(はなおか・せいしゅう)が初め
ての全身麻酔手術に成功したのはちょうど200年前の1804
(文化元)年10月13日。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及し
なかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に
伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料
を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で
発見した。

 新資料「療乳(がん)記」は漢文6ページの小冊子。玄白の息子、
立卿(りゅうけい)の乳がん手術記録をその弟子が印刷して関係
者に配ったものだ。

 それによると、立卿の手術は青洲の手術から9年後の文化10年
9月、江戸の玄白宅で行われた。「麻睡之剤」を用い、重さ数十グラ
ムのがんを摘出、傷を洗い、香油を塗って縫合した。患者は6時間
で意識が戻り、1カ月で回復した。青洲の弟子の宮河順達が玄白
門下に入って数人に手術し、立卿が実際に見学したこと、青洲への
感謝も書かれている。

 青洲は弟子に麻酔術の秘密を守らせた。手術内容の記録は数件
見つかっているだけで、手術は広がらなかったと考えられていた。
「数え80歳」(文化9年)の玄白が30歳近く年下の青洲に出した手
紙が現存し、「病人が手術の痛みに耐えられない。私は高齢なので
息子たちに治療させたく、彼らが質問の手紙を出すのを許してほしい。
宮河からも手紙を差し上げた」との記述があったが、玄白が単純に
青洲を賞賛した手紙と見られていた。

 松木さんは「医学史の空白が埋まった。新資料と合わせれば、青
洲の許可を得て立卿が順達から麻酔術を学んだと考えられる。順
達が江戸で手術をしたことも初めて分かったが、杉田派が加われば、
かなり普及していただろう。青洲が安易な伝授を戒めたのはケチだっ
たからではなく、患者の危険を避けるためだったと思う」という。

 日本麻酔学会は、青洲の麻酔手術が世界の先駆けだったとして、
10月13日を「麻酔の日」としている。

http://www.asahi.com/science/update/1013/001.html
(2004/10/13 17:32 .asahi.com より



(3)華岡青洲の弟子採取 200年前の薬草標本発見 宮城・石越


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030105-00000010-khk-toh

 約200年前、世界初の全身麻酔に成功した華岡青洲(1760―1835年)
に師事した一関藩の藩医、佐藤玄達(1792―1859年、旧名・曽根玄〓)
が1815年ごろ、青洲の医塾「春林軒」があった和歌山県那賀町平山で採取し
た薬草32点の標本が、宮城県石越町の今堂医院院長、佐藤良友さん(69)方
で見つかった。現地で採取された薬草の標本は発見例がなく、専門家は「青洲が
完成させた全身麻酔薬に使った薬草の入手経路を解明する上で、貴重な手掛かり
になる」(和歌山市立博物館)とみている。

 佐藤さんは7代続く医師の家系で、玄達は2代目に当たる。標本は、倉庫とし
て使っていた敷地内の木造2階の元病室から、江戸時代の蘭(らん)学書や漢方
書などとともに見つかった。

 薬草標本の表題は「紀州名手平山取處薬草」。大きさはおよそB5判で、表紙
の裏に「2代目佐藤玄達採取」と署名がある。

 標本には解熱や鎮痛効果があるマメ科のクララ、解毒、利尿作用があるカニク
サ(表記はスナクサ、シャミセンツル)、キンポウゲ科のキツネノボタン、春の
七草で知られるハコベラ、ワラビなどの34点が中国名とともに記されている。
うち32点が和紙に押し葉され、原形をとどめているが、2点は紛失した。

 佐藤玄達に詳しい鈴木幸彦・元国立歴史民俗博物館共同研究員(日本近世史)
によると、玄達は1814年、江戸で、蘭学の発展に寄与した仙台藩の藩医、大
槻玄沢に学び、翌15年、青洲を訪ね紀州へ向かった。春林軒では1年近く過ご
したとみられ、帰郷後は玄沢や青洲の下で学んだことを生かし、藩医として活躍
する傍ら宮城県石越町で医塾を開き、多くの門弟を育てたという。

 青洲は曼陀羅華(まんだらげ、チョウセンアサガオ)の花を主成分とする全身
麻酔薬「通仙散」を完成し1804年、乳がん摘出手術に成功した。しかし、青
洲が採取した薬草の標本は一点も残っておらず、青洲がどのようにして薬草を入
手し、「通仙散」を完成させたのかはいまだ謎だ。

 華岡青洲を研究している和歌山市立博物館の高橋克伸学芸員は「青洲自身が地
元・紀州の野山で薬草を採取していたことを裏付ける歴史的な資料として非常に
価値が高いだけでなく、標本の分析により『通仙散』完成までの道程が明らかに
なる可能性もある」と話している。


※ 〓は王へんに民

[河北新報 2003年01月05日](河北新報)
[1月5日7時3分更新]