不破神社について
------壬申の乱と大海人皇子の足跡------2006.1.31掲載
(付)安八町墨俣・上宿を通る鎌倉街道(注-1)沿の「不破神社」(注-2)に付いて
不破神社の祭神はコノハナサクヤヒメノミコト木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)木花佐久夜姫=(宮崎県宮崎市大字熊野に木花神社 (きばな神社)として祭られています)ともいう。天神迩迩芸命(ニニギノミコト)はこの地で国神大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)をみそめられ結婚されたが、そのご懐妊について天神迩迩芸命からあらぬ疑いをかけられた。
そこで姫はその疑いをはらし天神も御子である事を立証しようと、出産に当って戸の無い産屋を建てさせ粘土で塗りふさぎ火をかけて三皇子を次々にお産みになった。
その火の真盛りにお生まれになった御子は火照命(ホデリノミコト)、次の子は火須勢理命(ホスセリノミコト)、火が衰え鎮まる時に火遠理の命またの名を日子穂穂手見命(ヒコホホデノミコト)(この辺りは 日向神話(ひむか神話)神々の系図を参照下さい)が生まれ給うた。(この辺りの話は天孫降臨について ご参照下さい)
このご兄弟の神々は神話にある山幸彦(彦火々出見尊(山幸)(諱 櫨津気根:ウツキネ)、海幸彦で、弟の山幸彦(日子穂穂手見命)は、兄神の釣針を探しに海津国に行き、海神の娘豊玉姫を妃にして帰られた。
(注-1)鎌倉街道=「鎌倉時代、京都と鎌倉を行き来する道は、小熊、北宿、市場から北及(きたおよび)から 川(木曽川)を渡って尾張の黒田へ出る街道」
(注-2) 美濃一宮・南宮大社 岐阜県不破郡垂井町 国幣大社
美濃二宮・不破神社、美濃三宮・伊奈波神社
※不破神社が美濃三宮・伊奈波神社より格上の「美濃の二ノ宮」だそうです。
(参照)全国一宮一覧--- http://homepage1.nifty.com/kitabatake/jinjya2.html
宇治拾遺物語にある「大海人皇子を救った墨俣の女」は、上宿の村社(不破神社)にお祀りしてある不破明神の化身であるといわれています。------この説は墨俣商工会 鎌倉街道説。
大海人皇子は 壬申の乱 の折、長良川の辺で、娘に盥で助けられたとしても、この墨俣が大海人軍の戦力として協力した見野(美濃)の不破氏の領地であり、不破氏の一族の協力と戦功を称えて「不破神社」と名付けたのかも知れない。----不破 洋
この木花咲耶姫命が何故墨俣・上宿の街道に「不破神社」として祭られたのか。(伝承聞き書き)
------以下、不破 洋 聞き書き-----
墨俣・上宿の不破神社の伝承によると、壬申の乱のおり、大海人皇子=「東宮大皇弟」の所領地が尾張・伊勢・桑名から安八評(ごおり=後の郷)後の美濃一帯の豪族が大海人皇子のために衆参し、味方した。大海人皇子が足が疲れて安八の湯に浸かり、気力回復して墨俣に差し掛かった折、大友皇子(弘文天皇=近江朝廷)は大海人皇子の軍に備えて長良川・木曽川の船を全て徴用して、軍備を固め、兵を集めていた。
まさに両軍が激突しようとしている折、川の辺で洗濯している娘があり、
大海人皇子『渡河するために船借りたい』
と申し出たところ娘は身分清らかにして、訳のある方と見破り
娘 『このほど、朝廷の戦人が来て、反乱軍が船を使って、大津の都に攻め込むため、この辺りのすべて船をお目仕上げになりました。今にも御咎めの巡視が来るやも知れません。この盥を使って後ほど川をお渡りいただきますが、まずはこの盥(たらい)の中に身をお隠しあそばせ』と言上。
大海人皇子・・・(川面に身を潜ませ盥を被る)
娘はさり気無く、盥の裏底に洗濯物を積み重ね、盥の裏底を使って洗濯を続けていると、そこへ、近江朝廷方の軍勢が押し寄せ、大海人皇子の発覚・間一髪
近江朝廷方の戦人『ここいらに怪しき謀反の輩が来なかったか』
娘 『先ほどそれらしき人方々が船を捜しにが来られました。この辺りの村々には舟の無いことを申し上げたら、『仕方なし。信濃に援軍を求めに向かう』と申されて、急ぎ発たれました。今頃、信濃路に差し掛かっている頃でしょう』
戦人『うーむ、一刻もぐずぐずして居れぬ。速く大津へ御注進!!』
これを盥の中に身を潜ませて、そのやり取りをつぶさに聞いていた
大海人皇子『危ういところを良く助けてくれた。この恩は忘れぬ。この辺りで味方の手勢を集めたいが、助けてはもらえないか』
と言ったところこの見野の土地は東ノ宮(大海人皇子)が領主であったため、
娘はこの辺りの村々から兵士を集め、大海人皇子の軍に加勢かする2,3千人の兵が集まった。兵を集めてくれた礼を言うと、娘は『いえいえ』と言って笑顔で、何処へとは無く立ち去った。この兵を中核にして尾張、信濃からの加勢の兵を合わせて、大津の近江朝廷を打ち滅ぼした後、この川辺にいた「娘」のことを村人に尋ねたところ、誰もこの娘のことを知らず、村の古老にこの「娘」が「木花咲耶姫命の化身」であった・・・ということを聞き、この地に「不破神社」を建立したとの言い伝えがあります。
※ 壬申の乱の折り、大海人皇子は 不破の関辺りに「不破宮」として仮の「宮」を建て、軍の本陣を置いていた。(この仮宮を置いたため、大海人軍が戦勝した折、一度は倭京で大負し、背走していた大伴吹負が軍勢を立て直し、當麻(たいま)の衢で大友皇子の近江軍の壱伎史韓国の軍と衝突。勇士・来目(くめ)らの功により近江軍を大破し、(7月)22日、倭京を平定。(7月)26日、諸将は不破宮に参向。----と日本書紀に描かれている)この木花咲耶姫あたりは史実(日本書紀)と神話や説話(古事記や今昔物語後の宇治拾遺物語)が入り乱れ、話しの辻褄が合わない。「木花咲耶姫命の化身」と言う話しは如何にも突飛である。
むしろ、大海人皇子が不破の関あたり一帯で壬申の乱の折、大海人軍の戦力として協力した見野(美濃)の不破氏の戦功を称えて「不破神社」と名付けた・・・と言う方が理に適うかも知れない。
木花咲耶姫命と不破を結ぶ線は木花咲耶姫命が生んだとされる彦火火出見命 ホホデミノミコト (彦火々出見尊(山幸)(諱 櫨津気根:ウツキネ)が 仲山金山彦神社[ナカヤマカナヤマヒコ]=南宮大社の祭神になっている以外に今のところ見当たらない。(文責・不破 洋)
壬申の乱で大海人皇子が美濃で旗揚げが出来た理由(推考)
西暦671年天智天皇崩御。先に吉野に難を逃れていた東宮である弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(おおとものおうじ)(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。壬申の乱である。
中央集権国家成立期における最大の悲劇である。 大海人皇子は逃れて伊賀,鈴鹿より東宮の領地である美濃に入る。安八評(味蜂間評=あんぱち郡)=(今の安八町)の湯沐邑令 多臣品治(美濃国の「味蜂間評の湯沐邑の多臣品治」)に告げて兵を集め,不破道より近江に入り,大友皇子を討ち滅ぼし,飛鳥浄御原に即位された。
宇治拾遺物語に「大海人皇子墨俣の渡しにて難を逃れたまう」と記してあるのが「不破神社」の謂われ。
美濃に領地を持っていたため、吉野から妻や子や郎党を引き連れて、強行軍で美濃を頼って鈴鹿越えをしたと思われます。大海人皇子の吉野から桑名への脱出路と壬申の乱の関係地図にリンクしました。
※飛鳥関連年表もご参照下さい。
1.
2.
3.
4.
5.
6.
7. 8.
9.
10
11.
12.
13.
不破神社について
おしまい