南宮大社と不破と金山彦命の関係
2006.1.25
金山彦命----仲山金山彦神社[ナカヤマカナヤマヒコ](名神大---注)
南宮大社[なんぐうたいしゃ]「金山彦命 配 見野命、彦火火出見命 南大神社「天火明命」」境内の北側に磐座がある。伊吹おろしで名高い伊吹山がある。金属精錬に不可欠であった風の強い地域で、製鉄がなされた地域であり、金属神を祀った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一説に、古代(古墳時代)青銅器の部族を渡来系の鉄器・鉄剣を持つ部族が戦力で青銅器部族を圧倒して打ち破った。奈良・倭国部族に属し、鉄器・鉄剣を製造出来る「金山彦命」は「戦で破れない」の代名詞となり、後に「不破」の姓を賜った・・とある。これが不破家の由来ともなっている。
(注)社格・・・国幣大社
名神大とは
平安時代の康保4年(西暦867年)に施行された三大式の一、延喜式が在るが、其の中の 延喜式神名帳に記載された神社を特に式内社と呼ぶ。其の内で格が高い神社を示して名神大と言う。固有名詞では無いが、専門用語に分類されるべき用語。式内社や名神大と云へば、平安時代から在る古社としてほぼ間違いは無いと思はれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南宮大社略誌 ----南宮の謂われ(由来)
創建年代は不詳。
社伝によれば、神武天皇即位の後、この地に祀り、八咫烏を配祀して、東山道の要路を鎮めたもの。その後、崇神天皇5年11月南宮山山上へ、その後現在地に遷座し、国府の南、あるいは古宮の南であったため、南宮という。古宮の場所は、現在、当社御旅所である南宮御旅神社と考えられている。
ちなみに、信濃の諏訪大社、伊賀の敢国神社、摂津の廣田神社も南宮と呼ばれることがある。
また、天武天皇元年6月、野上の行宮に坐した頃、当社へ戦勝祈願を行い、即位後、野上の宮殿を当社へ送ったという。
朱の社殿は、寛永19年徳川家光の再建。当初、21年毎に式年遷宮が行われていたが、応永年間からは51年毎。最近では昭和47年に行われた。
神紋は、現在は菊紋を使用しているが、昔は三つ巴。
境内の荒魂社などには、三つ巴の幕。
また、本殿の側面にも三つ巴が付いています。(不破家の家紋は三つ巴)
南宮大社御由緒
御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様であります。社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕された故を以て、当郡府中に祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇(注−4崇神天皇)の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。
崇神天皇の即位は甲申の年1月13日と日本書紀に記されています。(注−4崇神天皇) 日本書紀は「初めて国を治めた天皇」という天皇を2人挙げています。一人は初代天皇 の神武天皇、もう一人はこの第10代天皇の崇神天皇です。但し、両者の書き方は微妙に 違います。神武天皇では「古語に『初めて天下を治められた天皇』という」と伝聞形で 書いているのに対し、崇神天皇については「人民の戸籍を作り課役を命じ、物は豊かで 天下は平穏であった。そこで天皇を誉め讃えて『初めて国を治めた天皇』という」とし ています。これは推定するとこういうことだと思います。 神武は天皇家のはるか先祖に九州から大和に移動してきて朝廷の基盤を作った偉大な王 がいたのを伝説にもとづいて記述したもの。これに対して、崇神はそれより恐らく120 〜130年ほど後に大和を中心にして大きな勢力を持ち、全国ににらみを利かせる大王が 出現したことを記述したものではないでしょうか。
御神位は古く既に貞観十五年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国三十九座の内、当社のみ国幣大社(注)として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶三年(940)、平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058〜65)安部貞任追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。
国幣大社の下--国幣中社-- 国幣小社
御社殿
現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う美濃国人の只管(しかんたざ しくわん― 4 【▼只管▽打▼坐/▼祗管▽打▼坐】〔「只管」はひたすらの意〕〔仏〕 悟りを求めたり想念をはたらかすことなく、ひたすら座禅すること。曹洞宗の座禅の特色。)なる念願と、この西濃に生い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と相俟って、寛永十九年の秋九月、徳川三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来、歴代将軍の替わる毎に四百五石の朱印状を捧げてこれを安堵し、また、五十一年目毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正しく御神威を表徴する独自の社殿様式であり、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造営の棟札を始め、膨大な造営文章六百二十三冊を蔵し、これには明治維新の神仏判然令によって移築された堂塔をも含めて、細大洩らさず、その経費が明示され、全国的にも極めて貴重な史料として、御社殿・石鳥居・石輪橋等十八棟とともに国の重要文化財に指定されています。このページは南宮大社のホームへージを参考に作りました。