屋号「見遠堂」の由来・・・・・不破家の伝承では三嶋良策、後の廉斎が脇目も振らず、春林軒での勉強に手術の習得に、熱心であったため、青洲が良策帰郷の折り「医人は病だけを見るのでは無く、人の心の奥底の痛みも分かる医人たれ・・・・・遠くまで見通せる医人たれ」と言う意で「見遠堂」という屋号を頂いた・・と伝えられている。現在は玄関・向かい付けの間に東を向いて飾られている欅の扁額。原本は軸装されている。
肖像画の上に「右門人三嶋生予に讃を請う・・・文政八己酉春三月」と為書がある。この時、青洲・六十六歳。
青洲に乞うて授かった 三嶋為信への為書きのある華岡青洲像の讃(青洲自筆の讃)にも、
竹屋粛然烏雀かまびすし
風光自適寒村に臥す
唯思う起死回生の術
何ぞ望まん軽裘肥馬の門
とあり、この青洲の教えを廉斎自らがを終生守って生き抜いたと伝えられている。
明治17年から4年間懸けて建築。住むこと4年。明治24年10月「濃尾震災」のため改築に2年。明治26年竣工。現在にいたる。大工棟梁は春日井春三郎で愛知県尾西市起の人。後、不破家とも縁戚に当たる不破郡垂井町宮代の「南宮神社」の八棟造りの社殿や不破一色の社殿も建立した。
不破杏斎・56歳の時のもの。
現在の大門と土塀
現在の玄関(右)と千鳥破風の貴人玄関(左)
廉斎の青洲手術絵図の肉筆・教本(綴本)(本体とリンクしてあります)
不破家の廉斎の青洲の手術絵図教本の手写本(本体とリンクしてあります)
廉斎の青洲の手術絵図教本の手写本 同一部見開きの比較(左)青洲教本(右)良策の写本
廉斎の春林軒卒業旅行『熊野道中雑記』
百味箪笥 軟膏練鉢 木製薬研 片手盤 両手盤
華岡青洲の講義手写本・・・・・一部