( 5 )不破家の系譜・・・・・系図と伝承    

    不破姓の由来(2006.01.31:更新しました)                

 代   続 柄 
  名 前  ( 法 名 )
      項        目       
初 代   不破河内守光治 彦三権内・道貞(通貞、通定ともいう)現・岐阜県安八町神戸町西の保の領主(西の保城)美濃・斉藤家滅亡後、織田信長に従臣。のち安土城代となる。
不破家 不破河内守光治 関連資料
不破河内守光治が寄贈した
(1)新岐阜県安八町神戸町日吉神社本宮(日吉大宮)の狛犬(国の重要文化財)2010.01.13

(2)神戸町日吉神社下宮の狛犬

(3)金沢・菩提寺・廣誓寺の位牌
雲樹院殿前河内州史道無大大夫老居士
(金沢・不破家始祖)天正八辰十二月十四緋没
菩提寺・金沢市昌永町13-25 廣誓寺
墓地・金沢市野田山地区内
金沢市野田山墓地前田家の墓地を含めて10万坪
前田利家の墓は野田山の最上段に祭られている。
(2006年NHK放送中の司馬遼太郎作 「功名が辻」では、山内一豊の妻となる「千代」を養育したのは不破市之丞となっていますが、時代的には不破家の系図では、不破河内守光治以外にそのような人物は該当しません。しかし、河内守光治は信長に従属した後の名乗り名で、別に、彦三権内・道貞(通貞通定ともいう)とも名乗っています。斉藤家に属していた時は「通称名」としての市之丞であったのかもしれません。今後さらに調べてみます)
二 代 長 男 彦三
諦當院殿月峰良心大居士
  金沢城北面・浅野川に面した現在の
  「彦三町」(ひこそちょう)に広大な
   屋敷を構えていた。
   彦三町は後、分家多く、「一番町の   不破家」「〇番町の不破家」と
   菩提寺では呼んで、お勤めに行って
   いたと言う。(廣誓寺の説明)
金沢・不破家二代目-----以下十三代目・不破 一
(はじめ)氏に続く(現在 大阪在住)
慶長三戊八月十五日没菩提寺・金沢市昌永町13-25 
廣誓寺の堂宇に、不破一門の位牌祭られている。なお、不破河内守(父)と彦三(長男)は位牌が並んで祭られている。
墓地・金沢野田山不破彦三 本家墓地
不破本家は現在、不破 一氏に続き、長男は不破 泰氏・信州大学工学部 情報工学科助教授
  次 男 彦四郎源六廣綱(友綱)・・・・・・・・・・・・・・・・
  美濃竹ケ鼻の城主
@竹ヶ鼻城の絵図・・・金沢市成巽閣所蔵
@-(1)「四戦の図」の一部拡大より
A竹ヶ鼻城の拡大図
B竹ヶ鼻城の見取り図
C竹鼻広域字絵図
E不破一色字絵図
F竹ヶ鼻城の興亡について
G美濃古地図
H現在の竹ヶ鼻城城址碑
 竹ヶ鼻城城址説明板(羽島市教育委員会)

I竹鼻城の歴史資料
J木曽川今昔物語
墓地・金沢市野田山地区内に在ると言われている。
正室・八神 毛利家・・・・・三七松の伝承あり。
室・三名・・・羽島の不破三家
一、不破一色---------現在の不破 洋(十三代)
二、船橋--------不破橘三氏の系統
三、光明寺
  三 男 彦五郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岐阜県恵那郡蛭川村不破家として続く
二 代 不破一色 源六廣綱側室・(覚讃正悟信女)
不破一色墓地に墓碑(側室時の俗称名不明)
法名・覚讃正悟信女・承応(1653)癸己年二月十九日卒
三 代 三嶋氏
入婿
観相浄喜信士

緑応貞松信女(覚讃正悟信女の娘)
  (弟あるも夭折のため姉が跡を継ぐ)
観相浄喜信士・俗称・三嶋傳右衛門
        天和二(1682)壬戊年九月二十日卒

緑応貞松信女・寛文十一(1671)辛亥年三月二六日卒
    三嶋傳右衛門・緑応貞松信女に入婿
 徳川家旗本・志水甲斐守忠宗家臣百石取
 愛知県海東郡烏森村を領地
この代より不破から「三嶋」に姓が変わる
四 代 長 男 一観是信信士(二代・三嶋傳右衛門)
    
妻・墓碑不明
一観是信信士・俗称・三嶋利右衛門
         延宝四(1676)丙辰年八月二日卒
五 代 長 男 性了院理空見愚居士

真空慧鏡大姉
俗称・三嶋見秀・
 享保十七(1731)壬子年六月二十八日卒 七十三歳
真空慧鏡大姉享保九(1724)甲辰年八月二十一日卒
  次 男 一誉西念庵主(三嶋為信の叔父) 享保二十(1735)乙卯年三月五日卒 七十四歳
六 代 長 男 弘斎院仙嶽杏園居士(俗称・三嶋為信見秀)

釈尼慧光(俗称・波舞 ハマ)
初代為信(医師)
 宝暦六(1756)丙子年十一月九日卒 五十一歳
釈尼慧光・宝暦(1760)庚辰年六月十四日 四十三歳
七 代    円智院大含道意居士(三嶋為信 二代)

釈智淳信女(俗称・佐登 サト)
二代 為信(医師)
 寛政(1796)丙辰十二月二十五日卒 六十歳
 文政六(1823)癸未年六月二十四日卒 八十歳
八 代 次 男 真明院迪翁道啓居士(三嶋君可 きみよし)
         俗称・為信
釈尼妙観(俗称・千代)
三代 為信(医師)
 天保三(1832)壬辰十二月九日卒 六十三歳
 天保二(1831)辛卯二月五日卒 五十歳
  長 男 釈忍成居士 長男なるも 笠松・角田家に入婿 後の角田道立
 (道立の息子は笠松の漢学者・角田錦江 きんこう)
  三 男 宗順・岐阜長良・黄池(おいけ)家(村瀬家)
に入婿。
尾張徳川家の御用商人、豪商にて尾洲候より「黄金
の池」を持つ商人の意味から「黄池」の姓をうける。
明治初年大阪に移る。
  四 男 正倫・美濃竹鼻の医家 長谷川家に入婿 竹鼻で医業を営み、盛業・盛名を成す。
  五 男 瓊(けい)尾洲名古屋・佐藤家に入婿
後の佐藤圓仲・華岡青洲の春林軒の門人
医師・佐藤圓仲と称す。京都・吉益南涯に師事して
内科を学び、文化六年三月十日紀州・華岡青洲の春
林軒の門人となり、外科を修める。
九 代 長 男 歓正院廉斎道喜居士(三嶋則明)
嘉永二年より不破姓に戻る。俗称・為信

釈妙遠(俗称・千勢)
四代 為信(医師)幼名・良策。文政六年十一月一日華岡青洲の春林軒に入門。嘉永2年(1849)からは不破姓へと改姓。以後不破為信則明と名乗る。
 
万延元年(1860)庚申年八月十四日卒 五十六歳
 明治五(1872)壬申年九月十二日卒 六十四歳
十代 長 男 大信院仁翁義道杏斎居士(不破惟治 これ   はる)   俗称・為信

貞信院操空妙要大姉(俗称・要 よう)
五代 為信(医師)幼名・秀之助 後 良策
 父・廉斎の跡をついで華岡流外科を美濃で展開。
 明治(1899)己亥年五月十三日卒 七十一歳
 明治三十九(1906)丙午年八月十二日卒 六十九歳
十一代 三 男 誠光院満空益堂居士(不破益三郎)


宝林院富嶽妙勢大姉(俗称・ふじゑ
          通称・勢 せい)
 医学を志、済生学舎に入学するも栄養障害(脚気)になり帰郷。青年団に教育を普及。後 正木村村長を歴任。
 (大正14年の集合写真にこの時代の人々の姿あり)
 (大正時代の不破邸全景)邸内に益三郎の家訓碑あり。曰く「天を畏れよ」
 昭和十三(1938)戊寅年七月六日卒 六十七歳
本巣郡唐栗・若園家から嫁ぐ
 昭和六(1931)辛未年八月十一日卒 四十九歳
    篤光院実空貞信大姉(俗称・志を 
           通称 シン)
羽島市小熊町外粟野・川瀬家より益三郎の後妻に嫁す。
 昭和三十八(1963)癸卯年二月二十六日 卒 七九歳
十二代 長 男 醫徳院就翁成道居士 (不破成隆 しげたか)
妙光院慈空浄栄大姉(不破さかゑ)
明治37年2月13日生まれ。日本大学医学部卒・産婦人科医師 醫徳院就翁成道居士
没年・平成元年六月二十五日 卒 八十五歳
   平成四年四月十一日  卒 八十三歳
  長 女 貞(吉川元武と結婚) 医師・東京帝国女子医専卒 昭和四十一年八月 卒
  次 女 花(はな) 医師・東京帝国女子医専卒 平成四年三月 卒 
  次 男 不破義信 医師・(華陽山人と称す)
不破義信 不破益三郎 次男。
明治39年(1906)生まれ。
岐阜県羽島市正木町不破一色296番地に生まれる。
北海道大学医学部 昭和6(1931)年卒
昭和六十三年七月二日 卒 享年83歳
  三 女 勢喜(せき) 羽島女学校教師
  四 女 正(まさ) 同志社女子大卒
  五 女 道(みち) 名古屋大学附属病院医療情報学部教授・山内一信氏 母 平成二十一年十二月十三日卒
  三 男 博徳(ひろのり) 医師・名古屋大学卒 
十三代 次 男 不破 洋 医師・関西医大卒 ホームページ作成者
(長男・為信 俗称・隆は生後10ケ月で夭折)


(1)不破河内守光治 彦三権内・道貞(通貞・通定)

 元、濃州の士で、土岐氏に仕え、後 斎藤道三−龍興より、元亀元年織田信長の幕下に属した。天正三年信長から越前府中十万石を不破・前田利家・佐々成政の三人に賜り、北國の目付けとなったが、天正八年十二月十四日 対越前一向宗戦で羽咋の当たりで戦没した。墓地は金沢市野田山。菩提寺は金沢市昌永町13-25 昌永橋北詰の廣誓寺にある。


(2)金沢・不破家二代目 不破直光 別名・勝光、家光。通称・彦三。

 父 河内守光治の没後、金沢・前田利家に仕え、越前府中三万三千石を領し、天正十年越中での一揆の時、柴田勝家・前田利家等とともにこれを平定。同十年本能寺の変の後、秀吉が織田本家に謀反を起こした時、賤ケ岳で柴田勝家の後陣として年家・佐久間盛政とともに四月二十日、中川清秀の大岩砦を落としたが、柴田勝家軍、背走の時、陣を払って逃げたため、利家の怒りをかい、封を解かれた。後、利家赦免して家臣として、三万五千石を与えられ、金沢にて「不破直系」として、子孫長く藩に仕える。屋敷は金沢城北面・浅野川に面した現在の「彦三町」(ひこそちょう)一帯に屋敷をかまえていた。墓地は金沢市野田山。菩提寺は「彦三町」の北を流れる浅野川に懸かっている「昌永橋」を渡った左橋詰の金沢市昌永町13-25の「廣誓寺」本堂奥の不破一族を弔った佛堂で、現在も手厚く祭られている。



(3)美濃竹ケ鼻城主・不破彦四郎源六廣綱(友綱)

 父、不破河内守光治 彦三権内の後を継ぎ、美濃竹ケ鼻城を領し、織田信長に仕え、天正十年本能寺の変の後、秀吉、織田家に謀反。織田信雄・柴田勝家に味方して、孤軍奮闘、竹ケ鼻城に篭城一ケ月。難攻に秀吉「一夜堤」を昼夜兼行で近郷の民に「割普請」で約2.6qにわたって築かせ、足近川の水を引き入れ、「水攻め」をする。援軍を頼んだ織田信雄も家康も助けに来ず、開城。家康はこの間に軍備を整え、「小牧・長久手」の対秀吉戦にも敗北することなく、後に秀吉亡き後、天下を治める。開城の後、源六の足跡は桑名・鳴海・東濃蛭川と転々として、天正十九年父の跡を継いだ兄・不破直光 通称・彦三を頼って加賀・前田家に身を寄せ、一万三千九十石にて仕え、慶長元年、更に八千石賜り、人持ち組頭に任ぜられ、同五年前田利政に従い、大聖寺の役の時、病をえて没す。子孫、前田家に世襲す。墓地は 野田山にあり。菩提寺は不詳。(金沢市昌永町13-25の「廣誓寺」本堂奥の不破一族を弔った佛堂の一角に祭られているとの伝承あり。また、広綱の末裔は富山県高岡市に伝わっている・・・とは現・廣誓寺の方の説明あlり、2003.5.18確認のため、高岡市の不破家(和菓子の「不破福寿堂」)を訪ねるも、ここの不破家は初代彦三の二代後の分家とわかりました)このため、墓碑は不明です。ただ、父親の不破河内守光治 の墓所が『高野山』(現在では、菩提寺が消滅していて、墓所は不明になっています)になっていますし、長男の彦三直光も墓所は高野山になっていますので、野田山の不破河内守光治の灰塚に彦三直光も「土饅頭」の灰塚しかのこっていませんので、その兄弟として、灰塚としてまつられ、墓所は『高野山』にあり、父親・兄 直光と同様に『高野山』の菩提寺が消滅していて、墓所が不明になってしまった可能性が大です。これは仮説ですが、野田山の灰塚三基は親子二代のものと考え、不破河内守光治の灰塚に彦三直光と源六広綱の灰塚の三基と推察出来ないこともありませんが、不破  一氏の絵地図では「彦三直光の長男・泉龍院灰塚」となっています。まず、この絵図の通りと思いますが、『子孫、前田家に世襲す』とあるのに、まったく不破源六広綱の墓所が不明ということは不思議です。


(4)三嶋傳右衛門徳川家旗本・志水甲斐守忠宗の家臣・百石取・愛知県海東郡烏森村を領地す。

不破家の緑応貞松信女(覚讃正悟信女の娘)に入婿。入婿後不破姓から三嶋姓に変更。家紋も不破の右三つ巴から月星紋に変更。

 不破姓は嘉永二年(1849)歓正院廉斎道喜居士(三嶋則明)の代の時、笠松代官所より「不破姓に戻ってよし」の許可が出て、以後不破姓に戻る。家紋は 月星のまま現在も継続。このため文政六年十一月一日華岡青洲の春林軒に入門したた時は、三嶋良策の名で春林軒門人帳に名前を記載している。嘉永2年(1849)以後不破姓に成っている。



(5)真明院迪翁道啓居士(三嶋為信君可 きみよし) 俗称・為信 三代為信(医師)迪翁と号し、

大信とも名乗る。

  医を業として兼ねて天文歴数に極めて精通し、広く諸州の同学の士と交わる。余技として彫刻・刺繍にも長ず。性格は恬淡、洒脱で凡俗を超える風格があったという。長兄・角田道立(どうりゅう)の息・錦江(きんこう)が迪翁道啓を描いた広瀬米山の画に讃を書いている。

   国手ノ盛名此翁二属ス
    天文暦数神通二似タリ
     起死回生ハ尋常ノ事
      収メ尽クス乾坤方寸ノ中

   天保三(1832)壬辰十二月九日に没す・享年 六十三歳

 迪翁の遺品は数点の彫刻がある。そのなかでも 「如意」には次の銘文が刻まれている。

    瞻は大ならんことを欲し

    心は小ならんことを欲す

    智は円ならんことを欲し 

    行は方ならんことを欲す

---------以下。華陽山人・不破義信の迪翁考---------

 迪翁の座右の銘であろうとおもわれる。錦江の讃の中にある「天文暦数神通二似タリ」は誇張表現に見えるが、江戸後期-文化・文政の1800年のころ、日月運行を計測して、暦を作る方法を身につけていたことは、尋常ではないとおもわれる。このことは 迪翁自身が26歳の時に記述した「算法自考録」という書の序言があるので引用したい。

「迪翁・算法自考録序言」

(前 略)予が大師東海陰陽の理を以って弟子に伝へ授くるに、疇(チウ)を以ってす。乃ち紀、実、体、用、道是れ也。九疇の徳たること物に体して遣す可からざるなり。此れ吾が道の綱領とする所なり。予不敏なりと雖も試しに之ら算道に擬せん。凡そ数は一に帰し形は方円の二つ耳。円なるは天と為して陽に属し、方なるは地と為して陰に属す。蕭京言えること有り。陽は陰を以って体と為し、陰は陽を以って用と為す。陽無くんば則ち陰、以って生まること無く、陰なくんば則ち陽もって化することなし無しと。宣なるかな、方円、相性、斜弦、交済、算理の大原尽く此に在り。之ら紀と為す。悟ること心中に在り。紀有りと雖も算題を知らず。適等を識らずんば何を以ってか夫れ之を行はんか。千変万化尽くる事無しと雖も機に臨み変に応じて術を施さば豈難るに足らんか。之を実と為す。学ぶこと方策に在り。紀実有りと雖も乗約加減すること能はずんば亦達識と謂ふ可からず。之を体と為す。修むること掌中に在り。紀、実、体有りと雖も之を施さずんば祭食を見るが如くして益無き己。之を用と為す。用いること常に在り、紀実体用在りと雖も世に博めず、人に伝へざる者は有れども無きが如し。之ら伝へて算道成る。斯れ之を道と為す。訓うること門人に在り。此五言欠くること無き者あらば秀士と謂ひつ可し。予が魯を以てすと雖も医を修むるの暇に好んで算書を読み九疇を推明すること蓋し年を出たり。是に於て九牛の一毛を得ること有るに似たり。是を以って其固陋を忘れて二三子に伝えんと欲す。然れども其の気質の稟たること斉きこと能はず。或は学びて之ら行ふ者有り。或は学びて之を行ふ者有り。或は学びて之ら行ふ者有り。或は困りて之を行はざる者有り。亦一二のて定法を得て世に衒ふは予が欲せざる所なり。願は学びて厭はず、天理に通じ、地の理を悟りて遺すこと無き者有らば亦楽しからずや。

   寛政七乙卯春三月乙丑              君可自序

 寛政7年は君可僅かに二十六歳である。若くして大成した事が知れる。この人寔に奇行逸話の多い人である。(以上不破義信の「不破家回想録」より)

  不破家に伝わる伝承奇行逸話------不破成隆、不破義信・談-------

 其の・ある夏の日盛りに、野道を歩いていた迪翁はハタと立ち止まり、道中にある紐状の物を見付け『ヘンビ(蛇の美濃地方の方言)か縄か、ヘンビか縄か』と数度口の中で唱え「蛇」と出ると、踵を返して、道を変えた・・・・と言う。

 其の・ある夕方、妻に入浴を勧められ、衣類を脱いで、いざ風呂に入らんとする時、『湯か水か、湯か水か』と唱え始め、「水」と出ると、入浴を止めた・・・と言う。

 其の・算盤の名手と言われた迪翁は、ある日、本宅から東方1Kmに在る「木曽川」を逆登って来る、桑名から笠松への帆掛け舟を見て、中間や村人に『今からワシ(私)が、算盤であの船全部止めて見せるから、見ていよ』と、やおら算盤を弾きだすと、アラ不思議。今まで順風万帆にかぜを受けて進んでいた船が、ことごとくピターッと船足を止めてしまった・・・・・と言う。

 其の四・ある日、村でも有名な暴れん坊の尾張旗本の若侍が、今日も馬を駈って、村道を駆け回っている。今まさに田植え時で、てんてこ舞いの最中。村人大いに迷惑して、早苗を担いで田に転げ落ちる者、赤子を抱えて怯える者、泣き叫ぶ子供を見て、迪翁、おもむろに算盤を取り出し『あの横着者、馬から転げ落として見せようぞ』と中間に言うなり、算盤を弾き出すと、ヤレ不思議。今の今まで、パカラン、パカランと疾駆していた馬が、後ろ立ちになって、突然止まったためスッテンドウともんどりうって鞍から、かの若侍が落っこちた・・・・・と言う。

  皆さんは如何に謎解きをされますでょうか。不破家でも真実はわからないまま、長年にわたって、伝承されてきている「話」でございます。




(6)歓正院廉斎道喜居士(三嶋為信則明)俗称・為信 幼名・良策

 叔父・佐藤圓仲の後を追い、文政六年十一月一日華岡青洲の春林軒に入門。修学する事二年、春林軒の高弟となり、その奥義を得て帰村。外科・内科・産科に通じ、「麻沸散」なる麻酔薬を用いて、乳癌以外にも、自ら発明した外科技術も施行。生来倹素を好み、ある時人に語るに『世の大医と称するは、皆衣服、乗り物を飾り、数人の従者を供なうが、かくては貧者が医を請うことをおそれる。命の尊さは貧者も富者も同様。医は仁術である事を忘れてはならぬ』と。青洲の門を辞す時、誌り与えられた「見遠堂」の屋号と共に師の尊像(文政八年・青洲六十六歳の画像)の上に、青洲自信のの讃で『竹屋蕭然烏雀かまびすし。風光自適寒村に臥す。唯思うは起死回生の術。何ぞ望まん軽裘肥馬の門』を地で行き抜いた人。頗る諸学に通じ、又風雅の士にて、茶華道・漢詩文・和歌・俳句に長ず。万延元年(1860)庚申年八月十四日没す。 五十六歳。その死に臨み、端座して絶命の詩を書く。

     曇りなく 今や真如の 月さえて

          明るき死出の  旅ぞ楽しき

尚、嘉永二年(1849)笠松代官所より「元来三嶋家は、竹ヶ鼻城主・不破源六氏の血筋であるから、不破姓に戻っても良い」との許可が下り、以来、三嶋姓から不破為信を名乗る。このため、華岡門人帳には旧姓の「三嶋良策」と記載されている。

廉斎が師・青洲から頂いた直筆書

  (1)竹屋蕭然烏雀かまびすし 風光自適寒村に臥す

    唯思うは起死回生の術  何ぞ望まん軽裘肥馬の門

  (2)醫惟在活物窮理

  (3)欲療疾病 當精其内外

    方無古今 唯在致其知 

  (4)窮當益堅 老當益壮

  (5)漠々水田飛白鷺 陰々夏木囀◇

不破為信廉斎則明の墓誌銘・・・・・羽島市正木町不破一色 不破一色霊園内

   碑文

 君、諱は則明、字は子誠、通称為信、後廉斎と更む。姓は不破氏。葉栗郡不破一色の人なり。考は道啓居士。妣は某氏。その先は竹ヶ鼻城主不破源六友綱君より出ず。旧記散軼するが故に、その世系は審かに致す可からず。家世々医を以って業となし、皆為信を以って通称となす。然れども先世甚だしくは著われず、君幼にして頴敏、弱冠慨然として志を興す。当時紀州の瘍医華岡青洲、その術天下に甲たり。君就きて学ぶ。青洲は弟子常に数十百人。而して君を推して上足と称す。意に心を悉くして指授す。居ること数年尽くその奥を得て帰る。自ら発明する所も多し。その治療を施すや乃ち胸を刳り腹を割り、町を洗い臓を滌ぎ、而して後に縫合し、伝るに神膏を以てす。剖割に方りては先ず飲ましむるに麻薬を以てすゆえに病者毫も病苦を覚えず。旬日にして平復す。夫れ扁鵲・華佗は古へ絶技と称す者なるも君に比すれば則ちいまだ以って奇と為すに足らざるなり。所謂乳岩附骨疽の類その他世に難治と称するもの、手に応じて愈えざる莫し。医家の類は内外二科に分つ。而して君、両ながらこれを兼ね皆奇効あり。是に於てその名大いに四方に噪し。来りて治療を請う者千里を遠しとせず、日々に門に麕集す。皆輿して来り歩して去る。周礼の歳終稽医事に、十に全きを上と為し、十に一を失う之に次ぎ、十に四を失うを下と成す。君の如き者之を上医と謂わざるべけん乎。門人業を受くる者、前後若干人、皆各家を成す。性倹素を尚び、誇張の事を喜ばず。(中略)傍ら読書を好み、頗る経史に通ず。暇あれば則ち典籍もて自ら楽しむ。万延元年庚申年八月十四日病を以って歿す。春秋五十六、村中先塋の側に葬る。法謚して道喜居士という。(中略)絶命の詩を書して曰く「曇りなく今や真如の月さえて明るき死出の旅ぞ楽しき」と題して畢り、筆を擲て溘として長逝す(後略)慶応二年丙寅(1866)錦江 角田炳 撰併書



(7)大信院仁翁義道杏斎居士(不破惟治 これはる)

 俗称・為信 号・杏斎 幼名・秀之助。後 父と同じく「良策」と呼ばれる。文政十二年十二月七日、廉斎の長男として生まれ、父に従い醫学を学び、16歳にして父に代わって膿瘍の手術をし、人々に驚嘆される。その勉学に対すること、尋常にあらず、夜を徹して読書する事往々にて、その目、兎眼の如く、父・廉斎失明を畏れて読書勉学を禁ずるほどであった。嘉永三年、父と同じく華岡塾で塾頭であった京都・木屋町の高階丹後介経宣の門に入る。学ぶこと二年余。嘉永五年十二月帰村後、父を助けて執刀し、その手術の腕は神業と称され、濃尾両国はもとより、遠く三河・半田・伊勢・飛騨からも診療を請う者引きも切らず、名声近遠におよび、村内に宿屋三軒建ち並び、門前市をなしたと伝えられている。安政六年四月、父、廉斎医業から身を引き、息子・杏斎に譲る。時に杏斎・三十一歳。外科は勿論、産科は賀川流を修め、その技、又称せられた。和漢に通じ『通読せざるは無し』と言われ「傷寒論」にいたっては全て暗記していて、ある時、弟子の問いに対して『傷寒論第○巻・□項を読め』と教えたという。華岡流外科術も自ら発展させ(1)腋窩リンパ節の郭清 (2)四肢切断法など、新しい技法を発明した。名声に溺れず、大垣藩主・戸田侯より『高録にて召抱えん』と再三、小原鉄心を使者として使わされるも、父や青洲の教えを説いた、師・高階丹後守経宣の教えを守り、固持して出なかった。性格は清廉にして謹厳、また孝養の心厚い人であったと伝えられている。趣味は笠松の漢学者・儒学者である角田錦江(すみた きんこう)に習った「漢詩」や名古屋・松尾流茶道や煎茶など江戸末文人が好んだ龍琴も嗜んだ。交友者に大垣・江馬活堂、尾洲・森 林平があった。明治17年、杏斎55歳の時、4年間懸けて本宅を建築。住むこと4年。明治24年10月「濃尾震災」のため改築に2年。明治26年竣工。百有余年、現在にいたるも狂い無し。大工棟梁は春日井春三郎で愛知県尾西市起の人。明治17年の初回建設の前、春三郎・19歳。まだ幼さの残る若者に、本宅建築を任せるのに躊躇するも、春三郎の父が『私、齢五十を越えまして、いささか眼も弱くなり、自分で申し上げるのも何ですが、この春三郎、若いが腕は確かでございます。試しに邸内のお薬師堂が傷んでおりますれば、息子の腕のほどを見ていただくため、無償で建てさせてみせますから、もしお気に入りましたら、本宅のご普請をやらせてやってくださいまし』と言うため、薬師堂(不破家では「医王尊」の扁額が懸かっている)を建てさせたところ、見事な宮大工の腕前を披露。杏斎がまだ「良策」と呼ばれていた頃、16歳で患家で膝の膿瘍の手術をした事を思い出し、若き春三郎に本屋普請を頼んだ、という逸話も残っている。なお、この薬師堂は現在も健在で、釘を使わず組込式で建築してある。杏斎は明治(1899)己亥年五月十三日に亡くなった。享年七十一歳。

  辞世の詩

 身を仏陀に託して百思空し 嘆ぜず両眼既に朦朧たるを

   今より全て免る辛酸の苦   坐して荷香馥郁の中にあり

(8)廉斎の春林軒卒業旅行『熊野道中雑記』-----不破義信 解読-----「不破家回想録」より

○十日風雨強ク一日見合

○十一日


(9)杏斎の「皇女和宮下行記 中仙道随伴医師記録