(1) 羽島市・ 薩摩義士 宝暦治水の儀没者の慰霊寺----2006.3.23掲載
薩摩義士菩提寺(別院・江吉良 清江寺・狐穴 少林寺)ご紹介
 (2)不破成隆(しげたか)と薩摩義士

 羽島ライオンズクラブ・鹿児島ライオンズクラブ姉妹盟約締結50周年記念誌発刊に寄せて。

             2012.05.08 故L.不破成隆 長子 不破  洋(不破医院院長)

 父・成隆は昭和35年の羽島ライオンズ結成時から奔走し、「薩摩義士の恩顧に報いる」を合言葉にして、炎熱の夏・寒風吹きすさぶ厳寒に『宝暦時代の墓石を探せ!!』と言われ、訳け分からない私や友人・知人の迷惑を顧みず、羽島だけではなく、大垣・岐阜・長良真福寺や大隆寺・三田洞弘法などの墓石を探し回ったのを思い出します。多少傍若無人なところもありましたが、私心なく、目的に真直ぐ突き進む、情熱の人でした。

 不破成隆は明治37年2月13日誕生し、医師になってから十有余年目の41歳の時、昭和19年・太平洋戦争の真っ只中、敗色濃厚になって来た日本国を憂いて、兵役義務の無い41歳で、しかも、身長154cmと丙種合格にもならなかったにもかかわらず、無理に頼んで、海軍を志願して、何とか「海軍医官」の少尉として入隊しました。入隊直後、すぐ海軍の4発の大型水上艇(名前は亡失)で、南方 インドネシア-ボルネオ(カリマンタン島)に派遣されました。若くなかったためか、比較的安定した後方医療を担っていたそうです。戦地の病院とは名ばかりの椰子の葉で葺いた病棟は戦傷兵を診るより、現地の人達を診療している方が多かったと言います。最初はバリクパパン(ボルネオ島南東部にあるインドネシアの都市)で診療をしていましたが、昭和20年、戦局がいよいよ激しくなり、病院がロッキード戦闘機で機銃掃射されたりして、死ぬ目に合ったりしたため、やや奥地のバンジャルマシン(南カリマンタン州の州都で、町中を川や運河が流れている。全体は湿地帯で在ったと言う)に移動して、終戦の208月まで、戦傷兵を見る傍ら、軍上部からの叱責を受けながらも、現地の人達の大人・子供にかかわらず、診療していた・・・と回顧していました。終戦後、成隆や軍人軍属など2000名ほどが捕虜になりました。たまたま占領軍がオランダとオーストラリア混合部隊であったため、片言のドイツ語で会話が出来た・・・と言う幸運にもめぐまれ、虜収容所で、捕虜になってまもなく、成隆に、オランダの収容所長から『所長室に来るように・・・』と命令を受けたそうです。『いよいよ最後か』と腹をくくって、出頭したところ、所長は笑顔で、手を差し延べ『ドクトル フワ、現地の人々が貴君の無罪と助命に来ている。貴君は、日本兵だけでなく、現地の人達にも、良くぞ分け隔てなく診療をしてくれました。現地の皆さんに代わってお礼を申し上げたい』と言った・・・とお礼を言われた。・・・が、そこまで、オランダ語が理解出来たかどうかは分からない。(あくまで伝承---息子の私が父から聞いた話です) 兎に角、銃殺か絞首刑を覚悟していた成隆は、まだこの時は死刑か生かされたのか半信半疑であった・・・と言います。しかし、笑顔の所長はオランダや同盟軍のオーストラリアの軍医を呼んで、戦地に行ってから、初めて目にする「ワラジ」程もあるビーフステーキや焼きたてのパンや果物でふるまってくれたそうです。美味しいスープを振舞われた時は、『この世の中にコレほど美味いものが在るのか』と涙が出たそうです。と同時に、『こんな美味いものを喰っている連中に、飲まず喰わずで戦っている日本軍が勝てる分けないなぁ』とも思った・・・と言っていました。捕虜収容所に入れられた、終戦当時、海軍少佐に昇進していた成隆は、捕虜収容所内でトラブルが起こると、収容所長が直接、成隆を呼び出し、所長より取り纏めの指令を受けるも、自分より身分の高い軍の上官が居たため、『板ばさみになって困った・・・』とも言っていました。この後、終戦の翌年の昭和216月、丁度 麦刈りの真っ最中に、熊のような黒髭をたたえて、ニコニコ笑って、何の予告も無く家に帰ってきました。予想以上に早い帰還に、家中、大騒ぎして、無事の帰宅を祝ったのを覚えています。

 薩摩義士顕彰について

35年、羽島ライオンズクラブが結成され、それに参加した成隆は、かねて感心を持ち調査研究していた、薩摩義士の顕彰を提唱。クラブの承認を得て、薩摩義士顕彰委員会を設置して委員長となりました。昭和464月、羽島ライオンズクラブは鹿児島ライオンズクラブ・広瀬平治会長を招待し、「薩摩義士の恩顧に報いることが少しは出来た」と喜びを噛み締めていました。昭和4610月、答礼のため羽島ライオンズクラブ代表らが鹿児島を訪問し、成隆より両クラブの姉妹盟約を提案し、承認されました。この時、鹿児島では「薩摩義士」はさほど市民に関心が無く鹿児島ライオンズクラブの方々に、先祖がそのような大規模工事を完成し、美濃の地で、緑の緑野を構築したことの感謝の気持ちを伝え、薩摩義士の方々をお祭りした墓地を取り纏めてお伝えしたことに、『羽島ライオンズは大恩人』と逆にたたえられ、 以後、毎年のように両クラブの交流が続けられ、その間、県への働きかけも続けられ、昭和435月には成隆が岐阜県知事代理として、鹿児島の義士大祭に出向くまでにいたったそうです。 昭和454月、成隆は「血涙-薩摩義士略伝」を刊行し、同年5月、鹿児島県知事から感謝状を受けました。翌年7月には、岐阜県と鹿児島県が姉妹盟約を結んでいます。 成隆は、昭和505月、鹿児島ライオンズクラブ会長から感謝状を受け、平成元年6月25日に没くなって、没後2年目の平成34月には、羽島大橋畔の薩摩義士公園に、両ライオンズクラブによって、成隆の胸像が建立されました。

L不破成隆像
鹿児島ライオンズ・羽島ライオンズクラ
ブ姉妹盟約三十周年記念事業として薩摩
義士顕彰に一生を捧げ両クラブ姉妹盟約
に献身的な努力をされたL不破成隆の胸
像を宝暦治水工事の長良川が眺望される
地に建立し功績を永く後世に伝えます
  平成三年四月二十五日
        鹿児島ライオンズクラブ
        羽島ライオンズクラブ

 このたび、鹿児島に縁あって行ってきました。鹿児島は岐阜市よりも大きく、城山を中心にしてきれいな街でした。町の中、あちらこちらに緑の公園があり、それぞれに鹿児島の生んだ傑人・偉人の銅像や遺徳碑が建っていました。昭和35年鹿児島市人口34万人に対して、羽島市3.5万人。現在、鹿児島市60万人に対して羽島市7万人。どう見ても提灯と釣り鐘の様な姉妹提携ではありますが、鹿児島人の感謝の気持ちは、羽島市を「同挌の様な重さ」で受け止められていた・・と思います。薩摩義士関係の遺跡を回り、市民の方何人かと、お話しを聞く機会がありました。鹿児島豪雨災害時の甲突川洪水氾濫(1993)お話を聞くと、異口同音『最初に救助に駆け付けてくれたのは岐阜県の人』と言われ、毎年「傘踊り?」に際しても、『岐阜から蛇の目傘を持ってきてもらって感謝している』との言葉を頂きました。「薩摩義士」に関しても「岐阜県の方にお墓を探して頂けた」と感謝の言葉でした。鹿児島ライオンズクラブとの姉妹盟約50周年を迎え、いまだに鹿児島市の一般市民の方々からの感謝の言葉を、息子が聞いてきたことを、父・成隆も気分を良くしているだろう・・・と思って鹿児島を後にしました。

                    2012.05.08 故L.不破成隆 長子 不破  洋