4.羽島市 北部 の史跡散歩
(正木町・三ツ柳-新井-大浦新田-上大浦-坂丸-森−不破一色--足近町・北宿-南宿-直道-直道中島--小熊町・西小熊)
2006.03.26掲載--->2006.8.05更新
羽島市 西部 の史跡散歩 (正木町・三ツ柳-新井-大浦-大浦新田-坂丸-上大浦森--足近町-北宿-南宿-直道-直道中島--小熊町-東小熊-西小熊 探訪) |
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0-1 | 三ツ柳・船橋跡地(川幅800mの舟橋)と木曽川の旧堤防 平成18年7月15日更新 | ||
1-1 | 正木・新井濃尾大橋北詰 新井ー竹鼻・新井-間道 「郡道改修記念碑」と築堤完成碑 |
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1-2 | 正木・新井-おこし渡し燈台(濃尾大橋より北100m堤防上) |
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2 | 正木・大浦渡しの道標(みちしるべ) | ||
3-1 | 正木・大浦新田の金矮鶏神社(きんちゃぼ神社) | ||
3-2 | 正木・大浦 「大浦の蛇、火噴く蛇」写真提供・岩田光弘氏 | ||
4 | 正木・坂丸の「蛇塚」 | ||
5-0 | 正木町の神社(未完・・・一部掲載)---2006.8.05掲載 | ||
5-1 | 正木・上大浦の村社 洲原神社 | ||
5-2 | 正木・森の銀幣社 貴船神社 本当の名前は川曲ノ神社(川勾・かわまがりの神社)の社歴 |
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5-3 |
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6 | 足近・北宿の大恵寺 平成18年5月11日更新 | ||
7-1 | 足近・北宿の白山明社と北宿城跡地 平成18年5月11日更新 | ||
7-2 | 足近・北宿 北宿古字絵図 平成18年6月11日更新 | ||
8 | 足近・南宿の神明神社と願教寺 平成18年5月11日更新 | ||
9-1 | 足近・直道の西方寺 | ||
9-2 |
足近・直道の阿遅加神社 | ||
10 | 足近・直道中島と柳津町の境界線の源平蛙合戦場跡 | ||
11 | 小熊・境川左岸・美濃路街道 一里塚 | ||
12 | 小熊・境川左岸・一里塚下の普門院 | ||
13 | 小熊・西小熊の洲原神社 | ||
14 | 小熊・西小熊の瑠璃光寺 | ||
15 | 小熊・西小熊の恩立寺 | ||
16 | 小熊・西小熊の永明寺 | ||
17 | (番外)長島六坊・不破郡垂井町の平尾御坊・願誓寺 | ||
18 | 小熊・西小熊の中瀬中畑の「一乗寺」の五輪塔 | ||
19 | 美濃路街道高空写真と正木町不破一色の一里塚(正木小学校 敷地内) (戦後昭和25年 米軍が撮影した正木町須賀中心の美濃路街道) |
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20 | |||
0-1、三ツ柳・船橋跡地(川幅800mの舟橋)と木曽川の旧堤防
1.正木・新井濃尾大橋北詰新井ー竹鼻郡道の碑と築堤完成碑
濃尾大橋----形式はゲルバー式ワーレントラス。
(注)ゲルバー橋の名は、ドイツ人の発案者(Heinrich Gerber)に由来する。
英語で は、カンチレバー橋という。古くは、突げた橋とも称した。
愛知県一宮市−岐阜県羽島市野間を結ぶ橋。1953年(昭和28年) 横河橋梁製
橋長 777m 橋幅 7.5m 下路平行弦ワーレントラス 64.5m*3 4連
2連は1955年(昭和30年)製造架設
ゲルバートラス橋とは、トラスの連続構造にヒンジ(部材の結合点あるいは支点 構造の一種で、
回転は自由で移動が拘束された構造)を設けて静定構造とした橋。
支点沈下の影響を受けないことが特徴で、地盤が安定してないところなどでも対応 ができるもの。
濃尾大橋完成の記念碑(昭和31年3月建立)
木曽川堤防築堤完成碑---幾多の洪水に悩まされた人々の
よろこび沸き立つ記念碑です。
郡道改修記念碑----新井・飯柄・竹鼻街道を開通させた義勇の人々の碑。
新井ー竹鼻・新井-間道 「郡道改修記念碑」
新井・飯柄・竹鼻街道を開通させた義勇の人々の御名前。
1-2正木・新井-おこし渡し燈台(濃尾大橋より北100m堤防上)
対岸の尾張側には、お越宿場がある。木曽川の渡船場を控えていることから、
大名をはじめたくさんの旅人の通行・休泊でにぎわったようで、かつてを偲ぶ
ものが多く見られ、加えて宿場内の道は昔どおりの道筋、道幅であり、その道
の両側の家並みは宿場の面影を大いに残している。こちら美濃側は、江戸時代
当時は真っ暗で、明和7年に建てられたこの石燈台には、文学者の龍公美の漢詩
が刻まれている。口碑によると、夜渡船で難儀をした竹鼻出身の力士が、油代として
田二反を併せて寄進したそうです。
2.正木・大浦渡しの道標
3.正木・大浦新田の金矮(きんちゃぼ)神社
金矮鶏神社
長者伝説
長者には一人娘があり大そう可愛いがり其の娘に黄金製の矮鶏をあたえた。娘はこれを大切にし常に座右に置いていた。ある日、一人の手負いの若い武士が長者の門を叩き助けを乞うたので長者は手当を加え家に置いた。そのうちに武士は娘とよい仲になりそれが長者の知るところとなった。その頃武士の追手がせまり、長者に若い武士の取おさえを命じたので、やむなくこれを殺害してしまった。娘はこれを知ると悲しみのあまり日頃大切にしていた金矮鶏を抱き庭の井戸に身を投じ亡くなった。その後間もなく長者屋敷に怪火が出て壮大をほこった家倉ことごとく灰となったと云う。屋敷跡は薮となり井戸だけが残り、元旦の早朝には井戸の中より金矮雉の鳴き声が聞かれ、この声を聞く者は長者に成る事が出来ると伝う。
金矮鶏神社石碑
金矮鶏神社
金矮鶏神社の祠。
この地域は「大浦城」の跡地として伝承されている。今では
城跡を示すものは何も残っていない。
4.正木・坂丸の「蛇塚」
墨俣川(境川)の源平合戦
墨俣川の西岸には平重衡[しげひら]・維盛[これもり]の率いる平氏の大軍
が、 東岸には源行家[ゆきいえ]・義圓[ぎえん]等の源氏の軍勢が陣をとっ
て戦いましたが、 源氏は一方の大将、義圓が討ち取られ敗退しました。
この戦いで傷つき追われた武士が柳津や正木地区坂丸辺りにも、落ち
延び、近くの民家にも逃れて匿[かくま]われ、そこで息絶えた者も
多かったと思われます。 この地区にはあちらこちらに無縁仏として
の五輪塔があります。
大正11年二月九日 村長・梶川貞三郎 正木村で、坂丸地区の「四歩」の土地を購入した時の証文。
通称・へび塚
通称・へび塚の五輪塔
5-1.正木・上大浦の村有地と洲原神社
大正11年二月九日 村長・梶川貞三郎 正木村で、大浦字県(あがた)地区の一塚「弐拾七歩」の土地を購入した時の証文。
何のために、正木村がこの土地を購入したのか、まだ不明です。
まだ羽島の地に古墳の発見はありません。
(注)美濃の前方後円墳-------小川栄一著作目録
下記 下記を参考しました。http://www.geocities.jp/tk_ogw21/zenpokoen.html
美濃の前方後方墳
前方後方墳は前方後円墳とほぼ同時期に築造が始まり、その形状もいわゆる 後円部が円形であるか方形であるかの相違はあるものの、本質的に同一の葬 送思想(神仙思想)のもとに造られたと考えられる。以下そう考えられる理 由や、方形が採用された理由そしてその背景等についても一応検証を加え、 上記の記述を補っておきたい。 前方後方墳について概観すると、前方後円墳に比べて次のような特徴がある。 まずその総数であるが、前方後円墳が全国で約5200基といわれるのにた いして現在判明しているところでは、前方後方墳は250〜300基とされ 、(「美濃の前期古墳」平成2年・美濃古墳文化研究会編)前方後円墳に比 し、数的には著しく少ないことがあげられる。 次にその築造時期は「特定の地域を除いては、非常に短い間だけに築かれた 古墳」であり、古墳時代の初期に「そのほとんどが集中して築かれたという 特色がある」とされる(「美濃の前期古墳」)。また、その規模は全長40 mクラスが最も多く、前方後円墳に対して小規模なものが多い。
行き止まりの利用不明の通路----この取り付け道路は左の土地・3区画分の道路・・と判明しました。謎の一つは消えました。
墳墓か洲原神社の境内か?-----平らな土地100坪ほど
美濃の国 正一位 洲原神社の末社
この地区は「お蚕」を飼っていたので洲原神社(下記)の末社を村社として建立したものか?
[美濃市の文化財] 洲原神社(すはらじんじゃ) 奈良時代の養老5年越前の僧・泰澄大師によって創建されたと伝えられる。白山信仰の前宮として崇められたのが洲原神社。また、洲原神社は農業の神様として有名で、神社の「お砂」を田畑にまけば豊作といわれ、昔から洲原講の組織があって、各地から「お洲原まいり」に多くの参拝者がある。
洲原神社社殿の中央と東西の本殿は県重要文化財、拝殿、舞殿、楼門の六棟は、市重要文化財に指定されています。
美濃市の洲原神社へのアクセス
・長良川鉄道「洲原駅」下車、徒歩10分
・岐阜バス(八幡線)「洲原神社前」下車、徒歩1分
・美濃ICから車でR156を北へ約10km(約15分)
5-2.正木・森の銀幣社 貴船神社
本当の名前は川曲ノ神社(川勾・かわまがりの神社)の社歴
正木町森・貴船神社について
尾張神名帳集説乃訂考
尾張後学・津田神助正生 著 昭和53年8月10日印刷より
正式名・従三位川曲ノ神社(川勾・かわまがりの神社) 天神
「正生考」天正以来美濃の国に入りたる森村。貴船名神是なり。山伏来
法院司レ之。
社号を「加波万我理」とよみ奉るべし。集説本に川隈(かわくま)と訓て
神戸(かはべ)村神明といひ、張洲府志には河和(かふわ)と読みて、国府
輪村に附会(こじつけ)たるも皆あやまり也。
「里老曰く」森の明神はいま曲利(まがり)、弥曲(やくま)、北大浦(か
みおほうら)森村、坂丸、不破一色の六ケ村の惣氏神なり。されば氏子
の村々に産神(おみや・うぶすな)とてはなし。近年水難おほきに付きて、
村々にも貴船の小社をまうけたるあれど、みな森村より遣わせし御祓(
はらへ)也と言へり。
「正生考」
川勾(かわまがり)の地は、本国中島ノ郡にありて、後世鎌倉以来、右
の如く六ケ村にわかれ、天正に及びてみのの国(美濃国)に入る。然るに
曲利「公義料」弥曲(やぐま)北大浦(かみおうら・竝尾張領)、の三村は
中島ノ郡にあれども、森、坂丸(さかまる・竝中川半左衛門領公儀料入
会)、不破一色(ふわいしき・公義料)の三は(三ケ村)は、隣郡の羽粟郡
に乱れ入たり。
扱又弥曲(やぐま)は元来(もとより)曲利村の支(えだ)なりしを、いまは
西隣なる狐穴の支(えだ)に属(つき)て文字さへも矢熊(やぐま)と書きぬ。
かく浅ましく沿革(うつりかわり)たのは、一つには国名を替られ、二つ
に本郡をうしなひ、三には文字までも書更(かきかわり)て、地名の本義
うせ果ること、連旡(うれたく)かなしきの限りならずや。
「正生」
此みやしろを捜索(探す)ことすでに三十一年にし神慮(かみ)の
冥助(たすけ)を得て森村に(もりと呼ぶも神社やある故いう)御本社の歴
然(シャン)と鎮(とどまり)給ふを識(しり)、社号は勾利(まがり)と弥曲
(やぐま)の二村に微(かすか)にのこるを悟る。我ながら怪き(あやしき)
まで考得つるの嬉しさ、金玉(たから)にも換えがたき福ひ(さいわい)也
ける。実(げに)に此辺は、古河跡も弥勾(いやまがり)にまがりたれば、
何(いか)さま木船の水神を祟貴(あがめたっとぶ)ぶべき光景(ありさま)
也ける。
貴布禰総本宮 貴船神社
住所:〒601-1112 京都市左京区鞍馬貴船町180 電話:075-741-2016
当宮は全国の貴船神社の総本宮ですが、全国に貴船神社と称する
神社は、宗教法人に登録されている神社だけで約500社を数えます。
その中には「貴布禰神社」「木舟神社」と書く神社も含まれています。
これらほとんどの神社※は当宮の御分社で、北は青森県から南は鹿
児島県に至るまで広い範囲に鎮座しています。
また貴船神社という名前ではないが、お祀(まつ)りされている神様が
同じで高(おかみ)神社、(おかみ)神社、意賀美(おかみ)神社、
闇(くらおかみ)神社といった神社もたくさんあり、平成8年秋にこれらの
神社の数を調べたところ2000社を越すことがわかり、日本人の「水」
に対する信仰の篤さがうかがえます。
水の神様は、水の恵みの豊かなところ、水が少なくいつも困っている
ところ、水の危険なところにも、全国至るところに祀られています。
森の明神はいま曲利(まがり)、弥曲(やくま)、北大浦(か
みおほうら)森村、坂丸、不破一色の六ケ村の惣氏神なり
川勾(かわまがり)の地は、本国中島ノ郡にありて、後世鎌倉以来、右
の如く六ケ村にわかれ、天正に及びてみのの国(美濃国)に入る。
元禄13年の時には美濃の領内になっている時。この頃は曲利(まがり)、
弥曲(やくま)、北大浦(かみおほうら)森村、坂丸、不破一色
の六ケ村の惣氏神として社殿を建て替えたか燈籠だけ建てたのか?
6.足近・北宿の大恵寺(だいえいじ)
創建は詳細不明。大恵寺に斉藤道三の位牌がある。斉藤道三と大恵寺との関係は不明。信長の時代に建てられた・・・と伝えられる。北宿城の鬼門に当り、互いに関係しているのかも知れない。
大恵禅寺・・・妙心寺派
大恵禅寺
大恵禅寺参道
大恵禅寺
大恵禅寺本堂
大恵禅寺脇堂扁額
大恵禅寺本堂・扁額「薫風殿」
大恵禅寺本堂
大恵禅寺 鐘楼
大恵禅寺 鐘楼 基壇の自然石・左三つ巴紋
大恵禅寺 鐘楼 の梵鐘
7.足近・北宿の白山明社と北宿城跡地
「北宿城」があったのが何時の時代か判然としない。この北宿地区の北に戦国時代の美濃の武将・稲葉一鐵の所領した「門間の庄」があったといわれる。足利氏の室町時代に北宿の田中某が美濃の国主・土岐氏より領地を与えられ「北宿城」と呼ばれて、領地を治めていたと思われる。戦国時代になると美濃の斉藤道三の下克上によって土岐氏が滅び、当時この地は尾張の北西部に当り、織田信長の美濃攻撃最前線として、美濃側の砦として、美濃の守りを固めていたのかもしれない。何時の頃滅びたのか不明。北宿城・田中氏の部下に福井五郎衛門が居り、現在の神社の敷地内、現在ゲートボール場になっている東北隅に、その理由は分からないが、福井五郎衛門の霊を弔って「地蔵堂」が立てられている。「地蔵堂」は現在の地より南に建てられていたが耕地整理の折、現在の地に移転。又、北宿城・家老職にあった馬場弥忠太の領地は現在の足近町南宿の地に『馬場元町=ばんばもとまち』の名前で残っている。
白山神社
創建されたのは350年前の江戸初期のころ。平成十九年が白山神社の350年紀と言われている。北宿城との関係は不明。江戸末期の嘉永年間の字絵図では現在の白山神社の裏に池が在り、領地は現在の10倍ほど在った。北宿地内の現在の生活道路が細く曲がりくねって、迷路の様になっているのは、この神社の地割のためか。
白山神社拝殿
北宿城跡地と思われる地域北宿城が創建された当時の中心地=本丸あたりかもしれない。中央のお堂は福井五郎衛門の霊を祭った地蔵堂。
白山神社 社殿
白山神社 社殿の唐獅子彫刻
白山神社 句碑 建立されたのは、田中家4代前の田中元治郎氏。
辞世・冬木立 可稔手(かねて)覚悟の飛ト里旅(ひとりたび)
田中家4代前の田中元治郎氏は子どもを授かるも5人とも夭折してしまったため、鈴鹿の白子まで左の観音を作り、白子で白子観音の入魂を懇請し、ここに子孫繁栄の「子安観音」を建てた・・・と今に伝えられ、子孫によって守られています。
白山神社 社殿
7−2 北宿 古 字絵図 23
北が下になっているため、左・東 右・西 上・南になっている。
北が下になっているため、左・東 右・西 上・南になっている。大恵寺は現在も北宿の北東の端に位置している。
北宿の東側に「足近川」があり、絵図にも書き込まれ、橋も描かれている。
北宿中心部
大恵寺を中心とした輪中堤防と足近川
北宿人別改め絵図・・・嘉永7年寅年
8.足近・南宿の神明神社と願教寺
願教寺扁額-1
願教寺扁額-2
願教寺屋根棟--「寶積山」山号
願教寺 隣の 白幣社 神明神社
願教寺前の神明神社
平成6年 伊勢神宮遷宮の材を祓い受け、造営された神の座。
9-1.足近・直道の西方寺
西 方 寺
県重要文化財
戦国時代の伝説につつまれた秘仏の寺。木造阿彌蛇如来、 絹本着色聖徳太子像、絹本着色羅漢之図いずれも県重要 文化財に指定された宝物をはじめ、多くの古文書も展示 されています。
西 方 寺 参道入り口付近
西 方 寺 入り口
西 方 寺 の瓦塀
西 方 寺 本堂
菩提樹
菩提樹
西 方 寺 本堂 裏手の境川堤防左岸より、金華山を望む。(川は 境川)
9-2.近・直道の阿遅加神社
足近町直道・阿遅加神社について
尾張神名帳集説乃訂考
尾張後学・津田神助正生 著 昭和53年8月10日印刷より
正式名・従三位阿遅加ノ神社 天神
「松平君山曰く」(此も今は美濃に入)足近の郷 直道(すぐみ
ち)村八劍ノ社也。小庵 自性寺(じしょうじ・禅宗)是なり。
「正生考」
阿遅加は仮名書き也。足近正字歟(か)いまだしらず。
足近、桑原等の和名抄に泄(もれ)たるはいぶかしき也。村名は須
五美智(すぐみち)と呼べし。須具道(すぐみち)といふは非なり。
小庵自性寺は神社の東側にあり。もと社僧なるべし。
「里老曰く」
自性寺は北宿村大恵禅寺の末寺也。此宮は足近輪中
十ケ村の産神(おみや・うぶすな)也。
「正生曰く」
文政年間切石(きりいし)をもて、社頭の下を一丈畳
あげたるより、却旧宮のすがたを失へり。
10.足近・直道中島と柳津町の境界線の「源平蛙合戦場跡」
尾張川(境川)の源平合戦
養和元年(1181)3月に、墨俣川を挟んで平氏と源氏の軍が陣を張り、壮絶な
戦いを展開した「墨俣川の合戦」がありましたが、 その激戦地の一つがここで
す。この戦いはやがて一の谷・屋島・壇の浦へと続く源平の一大決戦の先がけ
となった戦いでした。
墨俣川の西岸には平重衡[しげひら]・維盛[これもり]の率いる平氏の大軍
が、 東岸には源行家[ゆきいえ]・義圓[ぎえん]等の源氏の軍勢が陣をとっ
て戦いましたが、 源氏は一方の大将、義圓が討ち取られ敗退しました。
この戦いで傷つき追われた武士が柳津や正木地区坂丸辺りにも、落ち延び、近くの民家にも
逃れて匿[かくま]われ、そこで息絶えた者も多かったと思われます。 この地区には縁こち
に無縁仏としての五輪塔があります。
これらの戦死者を供養するために、誓浄[せいじょう]寺や本養[ほんよう]寺
が建立され、また、多くの五輪塔が立てられて戦死者の霊を弔いました。
その後400年ほどして、この地を襲った天正の大洪水が二つの寺を押し流し、五輪塔も次第
に埋もれたり散逸してしまいました。 近年、西小熊地内の境川の川底から、多数の五輪塔型
の墓石が発見され、西小熊の一乗寺の境内に置かれておりますが、 これは尾張川の合戦の戦
死者を弔うためのものだと思われます。なお、本養の地には古池があり、毎年旧暦の3月にな
るとたくさんの蛙が集まってきて鳴き争ったと言います。 これは尾張川の合戦で討ち死 にし
た源・平双方の武士を同じ場所へ葬ったため、 亡霊が蛙に化身して往時の激戦を再現してい
るものと言い伝えられ、 尾張川(境川)古戦場を、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場」と呼ん
でいたということです。
西 方 寺 本堂 裏手の境川堤防左岸より、東北の金華山を望む。
西 方 寺 本堂 裏手の境川堤防左岸より、北を望む。
中央=尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場」
西 方 寺 本堂 裏手の境川堤防左岸より、西方を望む。
西 方 寺裏手の「旧・美濃路街道」境川堤防左岸。左下は坂井地区
「旧・美濃路街道」境川堤防左岸。西方を望む。
中央=尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場」の碑
中央=尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場」の石柱
尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場」の現在の石碑
境川古戦場、現在の石碑の末尾に「願教寺」の名前。
尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場
での源平合戦の犠牲者を弔った足近町市場の「願教寺」の扁額
尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場 北東の現在の境川
尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場 南西の現在の境川
尾張川(境川)古戦場、別名「蛙合戦[かわずがっせん]古戦場
北東の高桑地区現在の境川右岸堤防。桜並木になっています。
11.小熊・境川左岸・一里塚
小熊・境川左岸・一里塚と銀杏の木
小熊・境川左岸・一里塚
12.小熊・境川左岸・一里塚下の普門院
一里塚下の普門院
13.小熊・西小熊の洲原神社
美濃の国 正一位 洲原神社の末社
この地区は「お蚕」を飼っていたので洲原神社(下記)の末社を村社として建立したもの。
美濃の国 正一位 洲原神社
元正天皇の養老元年(717年)白山の泰澄に勅命下り、養老五年五月社殿が造営された。
その後代代の領主、権力者により再興、改築などが行はれたが、現在の社殿は江戸時代
初期のものであり、御本殿三社(岐阜県重要文化財)のほか楼門、御拝殿、御舞殿、社務所
他の建物に至るまで、御屋根は檜皮で葺かれており、正に幽邃な雰囲気を醸し出している。
境内には千古の老杉、古檜木、年経た各種の樹木が鬱蒼と繁茂し、社前には長良川の
清流と、後方には緑濃き鶴形山が控へた風光明媚な神域である。
古来、「正一位洲原白山」と称へて全国から多くの「お洲原参り」の参拝者で名高い。
14.小熊・西小熊の瑠璃光寺
瑠璃光寺山門
15.小熊・西小熊の恩立寺
川並六坊 羽栗郡西小熊村 真宗東派妙高山恩立寺
川並六坊
川並六坊恩立寺
16.小熊・西小熊の「長島六坊」・永明寺
長島一揆(長島町史)
長崎新蔵(長島六坊)
山内七助(長島六坊)
岡本庄助(長島六坊)
飯田九蔵(長島六坊)
水谷兵右衛門(長島六坊)
平野知忍(長島六坊)
長島御坊と織田信長の戦いごろ、津市乙部より「長島御坊」に加勢したが、
時に利あらず、退却し、羽島の地に寺を構えたといわれる永明寺。
永明寺の山門
永明寺玄関の雲型蛙股
永明寺のカイヅカイブキは羽島市指定天然記念物。
カイヅカイブキは羽島市指定天然記念物。
17.(番外)長島六坊・垂井の平尾御坊・願誓寺
『平尾御坊』
平尾御坊とは願證寺を指し、本願寺8代法王蓮如の6男蓮淳に
より永正年間(1504-1520)伊勢長島に創建、開基したのが
はじまりと伝えられています。天正2年(1574)の長島合戦
により焼失しましたが、その頃、蓮淳の孫證栄は平尾に移り
真徳寺を再興、開基しました。寛保3年(1743年)に御坊の
許可があり安永2年(1773)9世真の時、願證寺と改号しまし
た。その頃よりこの願證寺は平尾御坊として親しまれてきま
した。
平尾御坊=願證寺山門
平尾御坊山門正面
平尾御坊=願證寺山門の透かし
平尾御坊=願證寺本堂
平尾御坊=願證寺庫裏---左は貴人玄関の千鳥破風屋根と黒書院
貴人玄関と黒書院(右)
18.小熊・西小熊の中瀬中畑の「一乗寺」の五輪塔」
一乗寺・源平合戦(墨俣川の戦跡)
源平合戦の後、人の泣き叫ぶ声などが聞こえて人々は 大変困っていました。そこで地蔵尊を祀り、この寺を 建てて供養したそうです。
天正の大洪水が二つの寺を押し流し、五輪塔も次第に埋もれた
り散逸してしまいました。 近年、西小熊地内の境川の川底から、
多数の五輪塔型の墓石が発見され、西小熊の一乗寺の境内に
置かれておりますが、 これは尾張川の合戦の戦死者を弔うため
のものだと思われます。
一乗寺入り口
一乗寺・源平合戦(墨俣川の戦跡)の五輪塔
源平合戦の後、人の泣き叫ぶ声などが聞こえて人々は大変困っていた。
そこで地蔵尊を祀り、供養したそうです。
一乗寺・源平合戦(墨俣川の戦跡)の犠牲者が祭られています。
19.美濃路街道と一里塚
羽島市正木町不破一色(正木小学校 敷地内 体育館西)の一里塚 標識石柱
かつては径9m・高さ3mの土盛りがあったが、今は当時の面影は全くありません。
不破一色の美濃路街道 一里塚の横に建っている「美濃路街道」の説明板
1.美濃路街道----戦後昭和25年 米軍が撮影した正木町須賀中心の高空写真
中央に左下から右上方に伸びる「笠松-竹鼻街道」それに平行して走る右の線は足近川の
堤防。この間は、川原であたことが事が分かる貴重な写真。黄色の線の左の曲がりくねった
路が「美濃路街道」。中仙道-大垣-墨俣〜東海道-名古屋を結ぶ間道。江戸時代は、参勤交
代で、ここを大名行列も通った。 写真 上・南方 右・西方
2.戦後昭和25年 正木町須賀中心の南方からの航空写真(地上1000mぐらい)
集落は自然堤防の小高い地区にある以外は、全部田畑で、白っぽく写っているのは、砂地の畑地。
桑畑や桃畑が多かった。 ++++++++線は名鉄・竹鼻線で、自分が書き加えたもの。この当時は、工場
進出もなく、見渡す限り「緑の沃野」であつた。 写真 上・北西 右・北東