2.羽島  南部  歴史散歩

 羽島市 南東部-中央部-南部の歴史散歩
  駒塚・加賀野井・石田--上中・下中・市之枝--八神・大須・午南
1 駒塚街道界隈--(1)石河邸
2 駒塚街道界隈--(2)聖徳山 傳法寺・役の行者
  と駒塚街道(尾張・越--駒塚渡舟場-竹鼻)
3 駒塚街道界隈--(3)駒塚渡しの跡
4 加賀野井城跡
5 羽島・田園街道
6 堀津・馬頭観音
7 市之枝・櫟江神社(いちえ神社)の鏃石(やじりいし)
8 上中町沖・水屋作り建築
9 中区・徳仁寺
10 石田の猿尾と稲荷神社の三七松の「松の皮」(大正7年枯死)
11 石田の三七松の跡・八神城主・毛利掃部介(かもんのかみ)の息女
  竹鼻城主・不破源六広綱(友綱)の正室 自害の地
12 八神・八劍神社(やつるぎ神社)
正式名・従三位 石刀(いわと)ノ神社--2006.5.20更新
13 八神・八神の渡
14 大須観音・宝生院 真福寺
15 大須・金宝禅寺・・・八神・毛利家の菩提寺と毛利家歴代墓地
16 三川分流・明治改修慰霊碑と揚水場
17 羽島市最南端・大藪地区の午南助命壇
18 下中町・石田 願照寺・正風獅子門句碑--2006.5.16更新
19 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)と神社の種類
     2006.6.16 掲載(随時更新中)

(1)駒塚街道界隈----(1)石河邸址
 石河(いしこ)氏は慶長5年、関が原合戦の時、西軍に付いたため、秀吉から拝領した摂津国龍野の領地53.000石を家康に没収され、蟄居幽門を命ぜられていた慶長15年にゆるされ、美濃・摂津の内の10.000石を拝領し、寛文9年、駒塚を所在とするように命ぜられ、翌 寛文10年 館舎の造営をした。宅地は18.000u(5500坪)。明治の廃藩置県で1/3に減り羅された。石河氏は尾張藩の五家老に列し、自領内に西の竹鼻に向かう『駒塚街道』や尾張に向かう駒塚の渡船場や木曽川から逆川に通ずる湊を創設し、船流通を良くし、竹鼻の町に六斎市を毎月開かせたりして、竹鼻の町づくりの貢献をした。
 後世、明治に入って、石河 長軒( いしこちょうけん). (1893〜1969)竹鼻町駒塚出身の茶道家で、明治26年 庸軒流家元第八代石河中軒宗匠の長男として生まれ 、戦前・戦後の羽島の茶道の中心人物となり、庸軒流を羽島の地に広めた。弟子達により、石河邸敷地内に庸軒流家元第八代石河中軒宗匠の顕彰碑が建られている。




















庸軒流家元第八代石河中軒宗匠の顕彰碑


庸軒流家元第八代石河中軒宗匠の顕彰碑

(2)駒塚街道界隈----(2)聖徳山 傳法寺・役の行者
  と駒塚街道(尾張・越--駒塚渡舟場-竹鼻)










傳法寺の入り口、右脇にある「役の行者」の堂にある石像。


石河氏が自領内に作った竹鼻に向かう『駒塚街道』南方面

『駒塚街道』

『駒塚街道』北方面

『駒塚街道』西方面


『駒塚街道』

『駒塚街道』---駒塚渡場から美濃・竹鼻への街道降り口


(3)駒塚街道界隈--(3)駒塚渡し(渡舟場)
駒塚渡しは木曽川の美濃側にあり、お越の渡し(お越渡船)に次ぐ利用度の高いと船場で、大垣--竹鼻--名古屋を結ぶ交通・流通の要衝であった。設置年代は不明であるが駒塚に居宅を置いた、尾張藩家老・石河正章によって整備された。駒塚街道は別称「名古屋道」とよばれ、江戸300年はもとより昭和31年開通の濃尾大橋が出来るまで、人々が利用していた。駒塚区内には路傍に稲荷神社や地蔵堂が点在し、竹鼻の町を東西に横切り、現在の「名鉄・羽島市役所前」の駅の来た野道を西に行く大西を通って本郷地区に入り、この地点で堤防を上ると、長良川の本郷渡しに至る。(対岸は森部) この間4キロメートルの間に今も幾つかの街道の足跡が点在している。








祭神・馬頭観音




対岸の尾張側(愛知県一宮市尾西--現在は尾西グリーン・プラザや市民プールになっている)


(4)加賀野井城跡
加賀野井城の築城年代は不明であるが天正年間(1573〜1591年)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり415貫文(1万石)を領して城主となっていた。本能寺の変後豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ、豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ,天正十二年四月長久手において戦ったが,豊臣方の大敗になり,翌五月諸戦の雪辱のため一転して当城を攻撃した。
 城中には信雄の隊兵二千騎も加わり必死に防いだが,豊臣方十万の大軍の前に抗しきれず,城の明け渡しと,助命を条件に講話を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。そのため,五日夜蔭に乗じ大手門より打って出て,最後の決戦を試みた。衆寡敵せず城兵は枕を並べて討死し,城主秀望は辛くも脱出して関東にのがれて落城するに至った・・・と『加賀野井城跡』の看板に書かれている。 










(5)羽島・田園街道













(6)堀津・馬頭観音



堀津の野中の農道の脇にポツンと立っている馬頭観音碑。

野中の農道の脇にポツンと立っています。基台に刻まれている
「濱風連中」とは何か?濱中連中と言う『講中』がここを通った時、
仲間の一人が不幸にしてこの地で亡くなり、建てた墓碑か?


建立は明治30年12月 「濱風連中」

(7)市之枝・櫟江神社(いちえ神社)の鏃石(やじりいし)



櫟江神社(いちえ神社)

櫟江神社(いちえ神社)参道(南方)

櫟江神社(いちえ神社)鳥居



 鏃石(やじりいし)



「田原藤太」と読める自然石・・・・

 
日本の伝説(Japanese legend,folklore)より
http://www.pandaemonium.net/menu/myth23.html
「田原藤太」
 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の異称とされ、田原とも書き、「たわらのと
うた」とも呼ばれる。
 近江の国(現在の滋賀県辺り)田原の生まれで、藤原家の長男だったことから、
田原藤太秀郷(たわらのとうだひでさと)と呼ばれていたのだという。
 また龍神より米の尽きない俵を授かったことから、俵藤太と呼ばれるようにな
ったともいわれる。
 実在の武人藤原秀郷に、勇敢な伝説を付与して英雄化した架空の人物が、
俵藤太なのだろう。
 『太平記』や御伽草子『俵藤太物語』などに書かれる俵藤太は、龍神の頼みを
受けて、大百足(おおむかで)を退治する。

<藤原秀郷>
 生没年不詳。下野(現群馬、栃木県辺り)に勢力を持った武士で西暦940年、
平将門の乱に際して、平貞盛とともに将門を討ち、その功績より従四位下に叙さ
れ、下野守に任ぜられた。この将門との戦の際、秀郷が将門を直接弓で射たと伝
説にはある。 佐野、足利、小山、結城といった諸氏、また奥州藤原氏もその血
筋を継ぐといわれる。 現在、栃木県佐野市の唐沢山神社にある避来矢(ひらい
し)の鎧(国指定重要文化財)は、藤太が龍王より贈られた鎧だと伝わっている。
また同じく贈られた鐘を、瀬田の唐橋に近い園城寺(おんじょうじ)に寄進した
とされている。

平将門の乱
将門は939年(天慶二年)11月に常陸国府を襲撃し、12月には下野<SUB>
しもつけ</SUB>・上野<こうづけ>国府を襲撃した。国司を追い、印鑰<いんやく>
(国印と備蓄用の穀倉の鍵)を奪った。また、将門は武蔵・相模を巡回し印鑰を
おさめて下総へ帰った。平将門の乱である。藤原純友の乱とあわせて承平<じょ
うへい>・天慶<てんぎょう>の乱ともいい、律令国家をゆる
がす重大な反乱であった。将門は八幡大菩薩の使いと称する巫女の託宣をうけて
みずから「新皇」と称し、関東独立国家をうちたてようとした。「新皇」となっ
た将門は坂東諸国の国司を任命し、王城を下総国に建設することにした。940
年(天慶三年)二月十三・十四日の戦闘で平貞盛・藤原秀郷らの連合軍が将門を
たおし乱が平定される。3ヶ月にも足りない短期間の出来事である。















珍しい陶器の燈籠



櫟江神社の拝殿・鬼瓦---櫟の字が見える。

(8)上中町沖・水屋作り建築

水屋という作りの石垣で、水害の多かった時代、平地より一段高く玉石垣を
積み重ね、木曽川の氾濫に備えて高くしたもの。通常「水屋」は屋敷内でも
一段と高くした「土蔵」を指しますが、財力のあった庄屋クラスでは、屋敷全
体を「水屋建築」にした所もあります。

上中町沖・水屋作り建築

水屋は高さ7メートル。土蔵だけ、更に一段高くしてあります。城郭のようですが、城垣のように
割り石は使われず、玉石のみで組み立てられ美しい曲線が特徴。




上中町沖の辻堂・地蔵尊

沖の辻堂・地蔵尊

上中町沖・水屋作り建築---その2

上中町沖・水屋作り建築---6mぐらいの玉石垣

(9)中区・徳仁寺

大正時代に作られた「桑名街道」--北(江吉良・竹鼻方面)


「桑名街道」--南(中区・八神方面)

川並六坊・徳仁寺・・・・羽島市福寿町間島から分家した寺







(10)石田の猿尾と稲荷神社の三七松の「松の皮」(大正7年枯死)





猿尾の働き---石田に猿尾(さるお)をつくって、木曽川の水が猿尾にぶつかるようにし、水の勢いを弱めて佐屋川の方へ流そうとしました。この工事は大変なもので多くのぎせい者が出たそうです。
実際の猿尾を理解するには、現地に行っても広大すぎて、実態が掴めません。





「三七松」の松皮

天正12年(1584)5月、羽柴秀吉が太閤山で指揮を執り、一夜堤を築いて竹ケ鼻城を水攻めにした折、竹ケ鼻城の城主・不破源六広綱は、妻の実家(八神の毛利家)に援軍を頼むも、毛利家が援軍を送らなかったため、妻を離縁(本当は死なせたくなかった?)三七という中間(家老という説もあり身分不明)を付き添わせて八神の実家に送り返した。泣く泣く妻は石田の地にたどり着き、実家の八神城を見た時『いったん嫁いだ身、おめおめ帰れませぬ』と自害した。お供のの三七は墓標に稚松植え、殉死をしたという。石田の村では「松を切ると血が出る」と恐れられ切り倒されることも無く、大人が6人が手をつないでやっと抱えられ るほどの巨木に成長したと言うことでしたが、大正4年に枯死してしまいました。その枯死した「三七松」の松皮を石田の村人が手厚く石田の稲荷神社お拝殿保存してありました。長さ70cm 高さ40cm 厚さ10cm ほどです。古老に聞くと元々はもっと松皮は厚さも幅も大きかったそうです。

「三七松」の松皮

石田の稲荷神社からみた、石田地区。

石田に猿尾(さるお)---昭和の時代までは猿尾に松が植えられていましたが、すべて枯死してしまいました。
ここから見ても、猿尾の姿は想像できません。

(11)石田の三七松の跡(八神城主・毛利掃部介かもんのかみ)の息女=竹鼻城主・不破源六広綱(友綱)の正室自害の地

野中の「三七松遺跡」
天正12年(1584)5月、羽柴秀吉が太閤山で指揮を執り、一夜堤を築いて竹ケ鼻城を水攻めにした折、竹ケ鼻城の城主・不破源六広綱は、妻の実家(八神の毛利家)に援軍を頼むも、毛利家が援軍を送らなかったため、妻を離縁(本当は死なせたくなかった?)三七という中間(家老という説もあり身分不明)を付き添わせて八神の実家に送り返した。泣く泣く妻は石田の地にたどり着き、実家の八神城を見た時『いったん嫁いだ身、おめおめ帰れませぬ』と自害した。お供のの三七は墓標に稚松植え、殉死をしたという。石田の村では「松を切ると血が出る」と恐れられ切り倒されることも無く、大人が6人が手をつないでやっと抱えられ るほどの巨木に成長したと言うことでしたが、大正4年に枯死してしまいました。これが「三七松」の謂れです。

野中の「三七松遺跡」

「三七松遺跡」説明板







野中の「三七松遺跡」の五輪塔

地元・石田の歌人 一味庵石田の歌碑(松尾芭蕉 門下--再和(北方)派19世 石田一味庵 (1866-1939)書)



(12)八神・八劍神社
八劍神社(やつるぎじんじゃ)
のキーワードは従三位石刀ノ神社(いわとの神社)・・・下記写真

この碑の書は裏面に八劍神社・元宮司 伊東和子 昭和54年8月謹書 とある。

八神・八劍神社社伝について

八神・八劍神社社伝----------------2006.5.17

尾張神名帳集説乃訂考
尾張後学・津田神助正生 著 昭和53年8月10日印刷より


八神・八劍神社 社伝
従三位石刀ノ神社(いわとのかみ)

「近藤利昌曰く」美濃国に入たる中島ノ郡八神村(やかみ むら)。
岩神の本社是なるべし。
桑原の切(せこ)にあり。社家・伊藤兵庫
いま三社南面に竝う。社人(しゃもり)にとへば(問えば)本社は六所の
神也。左は稲荷、右は八幡宮なり。いなり(稲荷)は近世(ちかごろ)市
ノ枝村の稲荷をわからて(分かちて)祀る。故に惣(すべて)合わせて
八神様(やがみさま)也という。笑うベし歴代(としつき)の不合(あわぬ)
ことを「地名考云」八神は借字也。正字「岩神」の約(つづまる)也。
伊波(岩)の約(つづまり)「耶(や)」なり。岩滑(やなめ)、岩作(やさこ)等
の耶(や)のごとし。爰(ここに)をもつて岩神(やがみ)村と書くべきを
鎮(うめ)て八神と書くなり。
さて大嘗会(だいじやうゑ 大嘗祭のこと)卜定田(うらへた うら
な・う)に祀る八神殿、及(また)天皇鎮魂(みたましづめ)の八神殿
は、おのおの八柱(やはしら)の神名ありとぞ。其は別也。

「近藤利昌曰く」されば本社は祭神一座なるを、いま六所神に附
会し、左右の摂社を算込(かぞへこめ)八神と為(する)など戦国以
後の誤り也。

「里老曰く」八神は親村なり。石田(下中町石田)と前野(桑原町前
野)とは也我美(やがみ)の枝村也。爰をもつて春秋の祭礼には、八
神、石田、前野、三群(むら)の人々、この宮に一同に集いて神事
を執行(とる)也」といへり。

附言「中尾義稲曰く」集説本に、中島ノ郡石刀神社を、葉栗郡黒
岩天王とせるは甚だし非言なり。案に是は中島郡石田村(今は美濃)
の宮なるべし。石田も旧は伊波多(いわた)と唱しならん。石田(い
わた)は石門(いわと)かよへり。爰をもって石刀神社はいした(石
田)村に無てはならぬ筈也」いいひき。

「正生考」尾張神名帳集説乃訂考 尾張後学・津田神助正生
 中尾義稲氏も亦言ひ当たれども、石田の切(せこ)に従来(もとより)
宮の無事及また、耶我実(やがみ)の地名は「岩神」の約なるを不弁
(わきまえず)して的(あて)たるのみ。故に六分は的りて四分は不
中也。

「正生考」に石門(いわと)の余波(なごり)は石田の切(せこ)に遣
(のこり)りて、其神社は岩神(やかみ)村に鎮座(しづまり)賜へり。
時代沿革(うつりかわり)なり。同郡川曲(かわまがり)の神社にも
亦此類例あり。(注・川曲(かわまがり)の神社は羽島市正木町森の
貴船名神きふねみょうじん)のこと)「近藤利昌曰く」「やがみ」
の旧名を桑原村といひしと也。今も神社の切(せこ)に桑原の名残
あり。また此 曲輪(くるわ)をひろく「桑原輪中」とも呼有(よべ
り)。創建年は不明。

尾張神名帳集説乃訂考 尾張後学・津田神助正生 著より
八神・八劍神社 社伝
 従三位石刀ノ神社(いわとのかみ) 
について
の資料は元・八劍神社宮司 伊東和子氏にお借りし
ました。         転書文責・不破 洋 2006.5.15
掲載

(まとめ)
1.創建年
創建年は不明。尾張後学・津田神助正生尾張神名帳集説乃訂考によれば、
従三位石刀ノ神社(いわとのかみ神社)は中島郡47社の内、延喜式30座の内
に入っている。延喜式ではあるが何時の時代に建てられたのかは不明。
石燈籠に「貞享三年」と在るので、江戸時代・元禄時代の前=1687年に建て
られたのは確実。
 (注)『延喜式』(エンギシキ)とは、905年(延喜5)8月、醍醐天皇が
左大臣藤原時平に命じてその他11名(藤原定国、藤原有穂、平
惟範、紀長谷雄、藤原菅根、 三善清行、大蔵善行、藤原道明、
大中臣安則、三統理平、惟宗善経)の委員によって編纂 を開始
した。
編纂委員の死亡や増員ののち、927年(延長5)、22年を経て
ようやく完成奏上し、その後も修訂が加えられて40年後の967年
(康保4)に施行された。延喜5年(905)、藤原時平ほか11名によ
って編纂を開始したから「延喜式」と呼ばれる。
2.八神と石田の地名の移り変わりと相関関係
  伊波多(いわた)-->伊波(岩)多---->石門(いわと)--->耶(や)---->岩神(やかみ)--->八神(やがみ)
     ↓                   ↑↓    耶(や)也我美---->岩神(やかみ)--->八神(やがみ)
    岩田(いわた)-->石田(いわた)-->石門(いわと)---->岩神(やかみ)----->八神(やがみ)


3.八神・八劍神社 社伝
現在の呼称・金幣社 八神神社 本殿右=祭神櫛岩窓神(くしいわまどのかみ)
尾張神名帳によると 延喜式内社 元 国幣小社
 従三位石刀ノ神社(いわと神社)
本殿左=銀幣社 稲荷神社 元 地頭 毛利家祖先の守護神とと伝えられている。
末社・六社合祀
 1.若宮八幡宮
 2.津島神社
 3.冨士浅間神社
 4.白髭神社
 5.金毘羅神社
 6.多度神社
その他・各部落秋葉神社


 
桑原町八神の郷社・八劍神社・・・・・・碑の裏には 君川 大島徳 謹書 

碑文の書は明治時代〜昭和初期の能筆家・大島徳太郎 号・君川 楷書では当代、第一人者であった。
名徳太郎、君川と号し、壮年より愛知県庁に出仕し、専ら翰墨の事に当つた。早くより恒川宕谷に師事
し、退官後は書を以て立ち、多くの門人を養成して書壇の重鎮となつた。

没年・昭和十八年二月十七日(1943年) 
墓碑銘は「観徳院君川慈薫日蓼」。








八神の郷社・八劍神社への長い参道


八劍神社への長い参道には途中に橋も。。。


鳥居までには燈籠と松が整然とならんでいます。


鳥居正面には拝殿が構えています。


拝殿


拝殿から南方の参道


狛犬と「八」の字の鬼瓦

 
阿形・狛犬

吽形・狛犬

拝殿奥の昇殿(西面)






さざれ石

燈籠

燈籠には「貞享三年」江戸時代・元禄時代の前=1687年に建てられたもの。
羽島に残る戸外のものとしては古い時代のものです。

神楽殿の在った跡


前出と同じく、燈籠「貞享三年」1687年に建てられたもの。

燈籠「貞享三年」1687年に建てられたもの。此方は角柱。


この石柱の曰くはまだ聞いていません。


 
何故か社務所前の玄関に○○戦艦の30cm砲弾。今まで見たことも無い大きさです!!


社殿奥の祠 左・各部落 秋葉神社(火の神様)  右・八幡神社と稲荷神社(衣食住の神様)

八劍神社(やつるぎじんじゃ)---その2-----2005.5.15掲載---2005.5.20更新


八劍神社(やつるぎじんじゃ)の裏側。如何にも「鎮守の森」の景観です。

八劍神社(やつるぎじんじゃ)の西側からの景観

八劍神社(やつるぎじんじゃ)の西側からの鳥居

八劍神社(やつるぎじんじゃ)の参道にかかる橋

八劍神社(やつるぎじんじゃ)の大鳥居

八劍神社(やつるぎじんじゃ)本名・石刀ノ神社(いわとの神社)の云われの石



石刀ノ神社(いわとの神社)の云われの石







宮の西の石垣

宮の北の石垣

宮の東の石垣

奥宮

祭礼殿

石刀ノ神社(いわとの神社)の西方

石刀ノ神社(いわとの神社)の東方(社務所)









石刀ノ神社(いわとの神社) 現在名・八神神社
     
   おわり

(13)八神・八神の渡跡

八神の渡し跡の碑・・・木曽川から八神に降りてくる堤の南側・下にあるため分かりにくいです。






八神の渡し跡の地点から南東の木曽川・・・・木の生茂っているところは八神の猿尾。

(14)大須観音・宝生院 真福寺

こちらは本家本元の宝生院(大須観音)真言宗智山派の寺院。(通称:大須観音)。
御開山は能信(のうしん)上人

名前が知られている名古屋の『宝生院(大須観音)」は慶長17年(1612)に現在の
岐阜県羽島市大須に在ったものを洪水のない、名古屋の地に慶長17年(1612)、
家康が名古屋に移したといわれる。



本家本元の宝生院(大須観音)真言宗智山派の寺院。(通称:大須観音)


本家本元の宝生院(通称:大須観音)は名古屋の大須観音に比べ
規模は小さいですが、破風は同じように作られています。
















本家本元の宝生院(通称:大須観音)のご本尊


宝生院(通称:大須観音)の西隣『徳林寺』
『徳』林寺』は永保年間(999年)不動明王を本尊として創建されたと言われています。しかし、洪水で流され、昭和26年海津郡平田町幡長かの寺嶋から羽島市桑原町大須の現在地に移築したものです。



宝生院(通称:大須観音)の西隣『徳林寺』

宝生院 真福寺

宝生院(通称:大須観音)の西隣『徳林寺』

羽島市桑原町大須岡野町の現在地に移築工事中の写真(長良川の切れ地の跡の池の埋め立て工事)


長良川の切れ地の跡の池の埋め立て工事(昭和26年ごろの風景)


長良川の切れ地の跡の池の埋め立て工事(トロッコを使っての土砂埋め立て=昭和26年ごろの風景)


宝生院(通称:大須観音)の前の地区・羽島市桑原町大須岡野町の昭和26年ごろの風景


(15)大須・金宝禅寺・・・八神・毛利家の菩提寺と毛利家歴代墓地
毛利家の祖・毛利広次・名前は広盛ともいう。父・毛利広雅の子。毛利氏は源氏の末裔で美濃国中島郡石田村に居を構えていた土豪。広雅は織田信長に味方し1563年に斉藤竜興と戦って戦死。子・広次が跡を継ぎ信長に従臣。信長没後、竹鼻城水攻めの豊臣秀吉に従臣(三七松の伝説を生む)。1584年に3000石余りを与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し福島正則と共に竹ヶ鼻城の杉浦氏を討ち所領を安堵される。慶長年間に居城を同じ中島郡の八神に移した。1612年に徳川義直が美濃国内に領地を与えられた際に、義直の家臣となる。大坂の陣では美濃の諸将と共に河内の枚方に陣を敷いた。1614年12月14日死亡。法名・雲仙院殿冨林常翁居士。岐阜県羽島市桑原町の金宝寺に
葬られた。

金宝寺正面


金宝寺正面の門と碑


金宝禅寺


金宝禅寺の歴代標柱群


毛利家歴代の墓 標柱




毛利家歴代の墓-1

毛利家歴代の墓-2

毛利家歴代の墓-3

毛利家歴代の墓-4

松尾芭蕉 門下--再和(北方)派19世 石田一味庵 (1866-1939)書




八神城のあった跡地の銀杏の木


八神城の堀跡?(大池)

羽島温泉と簡易保養センター

大池と輪中堤(右側が池の面より低くなっています)

(16)三川分流・明治改修慰霊碑と揚水場

国土交通省 新桑原川排水機場

国土交通省 新桑原川排水機場の隣の坂の下は、旧桑原川排水機場

に架かる赤い橋は東小藪と中子藪を結ぶ「八幡橋」



桑原川から汲み上げられた水は長良川に放流されます。

長良川と木曽川の相い接するところ、通称「中堤(なかてい)」が延々、伊勢湾まで続いています。
途中に薩摩義士ゆかりの「千本松原」があります。見えているのは長良川の川面。


揖斐川と長良川と木曽川の三川分流記念碑(明治20年〜45年まで25年間かかって
オランダ人技師 デ・レーケの指導で分流を果たした築堤記念碑) 分流の基礎は薩
摩義士が行った工事は「宝暦治水」として恩恵を受けている地三川流域の住民に語り
継がれ、感謝されています。
 



大きく円弧を描く堤防は木曽川。上流には岐阜の金華山が右手に望めます。


川面は木曽川。松並木は愛知県側の千本松。


中堤の桜・川面の桜は遅咲きで4月10日ごろが見ごろ。隠れ花見の名所です。

三川分流碑から見た、長良川に沈む夕日。

(17)羽島市最南端・大藪地区の午南助命壇


「午南(うまみなみ)」と墨痕鮮やかに書かれた、用水の堰板。歴史を感じます。

助命壇の木は「天空のラピュタ」のように天に聳え立っています。

午南の助命壇・・・フクラモチの巨木が目印。

助命壇は個人の土地が村に提供されていた。現在は東隣に
石垣で6mほどの高さが保持され、助命壇が守られている。

羽島市で一番大きく太い木=フクラモチの木・・・樹齢300年に近い。
御神木になっていて、小さい社が祭られている。

羽島の南端・午南から見た夕日

(18)下中町・石田 願照寺・正風獅子門句碑




























 



























羽 島 南部 歴 史 散 歩
        
おしまい